メッセージ
New! 2010年02月07日(日)
1月24日の会員総会の日の礼拝説教でもTペトロ2:1-10より学びました。「教会に生きる」と題して、学びました。その時は、2:1-10の主として前半部(最初の5節)から学んだのですが、今日は、同じ個所の後半部、9節の御言葉を中心に学びたい。
前半部分の学びの折にも「祭司」という言葉がすでに出て来ておりました。「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(5b)。
その時にも申しましたが、「祭司」とは、礼拝や奉仕のわざにおいて神と教会に仕える人のことです。また、祭司は、「万人」祭司と言われるように、特に16世紀宗教改革以降においては、必ずしも、牧師とか司祭と言った、特定の職にある人々だけが祭司の務めをするのではなく、すべての信者が教会において祭司となるべく召されているのだということも、私たちは学びました。教会員皆が祭司である、と。
今日の説教題は、「みわざを広く伝えるために」と付けましたが、すべての信徒に与えられている祭司の務めが礼拝や奉仕の業においてだけではなく、伝道においても祭司の務めがあるということを、特に2:9の御言葉から学びたいと思うのです。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9)。
先程の聖書朗読で出エジプト19:1〜6を読みましたが、このTペトロ2:9の背景となっている旧約の箇所です。驚くほどよく似ておりますね。特に、6節「あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」。恐らく、ペトロは何度も何度もこの出エジプト記を読んだに違いありません。漁師の家に育ち、自らも、イエス・キリストの弟子となるまでは、漁師を生業としていたので、特に学問に長けた人ではなかったでしょう。その点では、ガマリエル門下で、律法の教育を受けた使徒パウロとは違っていたでしょう。けれども、出エジプト記は、モーセが預言者として召され、「エジプトの地、奴隷の家」から神の民イスラエルを導き出す救いの書でありますから、何度も読んでそのメッセージを自分のものとしていたに違いありません。とりわけ、19章・20章はシナイ山でモーセに十戒が与えられる、出エジプト記でも「中心的」と言ってもよいような個所でありますから、何度も読んでいたに違いありません。
それで、もう一度Tペトロ2:9に帰り、ペトロが神の民イスラエルとの連続性において新約のキリスト教会を呼んでいる一つ一つの呼称について吟味してみましょう。
「選ばれた民」「聖なる国民」…これについては、、申命記7:6-8(旧292)を参照してください。
イスラエルに力があったから、神様に選ばれたのではありませんでした。数が多かったから選ばれたのでもありませんでした。実は、イスラエルはどの民よりも貧弱であった。けれども、「ただあなたたちに対する主の愛のゆえにエジプトの地、奴隷の家から救い出されたのだ」と、モーセはイスラエルの会衆を前にしてしみじみと語っています。
私たちも自分たちの教会について思います。私たちはイエス・キリストの福音を語り伝える教会として30年間、福音の光を掲げてきました。しかし、自分たちに力があったから、このことができたのではない。数が多かったから神様が伝道をおゆるし下さったのでもない。私たちは、誰よりも貧弱であったのかも知れない。しかし、私たちに対する主の愛のゆえに、主は私たちに30年間改革派教会としてこの地に福音を伝道するすることをおゆるしくださったのだ、と。私は本当にそう思います。
このこととの関連で、私は、最近の神戸改革派神学校『校報』(68号)所載の国安光神学生の夏期伝道報告に示唆深い証を読むことができました。白石契約伝道所は宮城県白石市にある無牧の伝道所(私も2年前の6月に一度御言葉の奉仕をさせていただきました)ですが、この伝道所の会員である一人の姉妹がこう証しておられます。
「私自身がここに生きる者として,何をなすべきか?何ができるのか?を問いたい。主がその生命を捨てて買い取って下さった教会に仕える私の熱心は衰えていないだろうか?自分の弱さを本当に認めて,神様に誠実に打ち明けて助けを求めているだろうか?たとえ日本で一番小さな伝道所であろうと、定住牧師がいなかろうと、老人ばかりであろうと、やるべきことはちゃんとやる、だめなことはだめだと言う、教会を愛することにかけては人に負けない」。
国安兄は、このような東北の小さな無牧の伝道所の信徒の方の信仰に大変教えられるところがあったようです。次のように感想を書いておられます。「神の言に生きる東北の信徒の方々は、たとえ小さくても、お金がなくても、若者がいなくても、神に信頼し、神を喜ぶために心をつくして教会に仕えておられました」。
「王の系統を引く祭司」…これについては、出エジプト19:4,5を参照。特に、19:5の最後に出てくる「世界はすべて私のものである」という御言葉に注意。主は、この世界とその中のすべてのものを造り保ち支配しておられる、全世界の王なのです。私たちがキリストの福音を証し、伝道するとき、これほどに心強いことはないのではないでしょうか。私たちは,全世界の王に属する祭司として、全世界に福音を証すべく召されている者なのです。力強く全地を支配しておられる王に仕える祭司なのです。
神学校に入ったばかりのころ、宣教師の先生に連れられて町に行き、路傍伝道の訓練を受けたことがあります。阪神元町の駅頭に立って、道行く人に福音を説教するのです。拡声器を手に持って、「私たちは神戸改革派神学校で学んでいる学生でありますが、皆様は天地万物をお造りになった唯一の真の神様のことをご存知ですか」と、ありったけの声を挙げて福音を説教するのです。もう43年も前のことですから、こういうこともできたのですね。それでも初めは、中々勇気のいることでした。ただ、「天地の造り主である生けるまことの神」と言った途端に、何かしら気持ちが座って大胆になることができたことを覚えています。「世界はすべてわたしのものである」。このように権威をもって仰せになった方が,私たちを福音伝道にお召しになるのですから、私たちは大いに心強いことでございます。
伝道のために勇気を戴きたいと願うならば、「天地万物を造られた唯一の真の神様をご存知ですか」と切り出すのが一番よいようです。八百万の神々の文化の中で、まことの宗教を知らない日本人は、「天地の造り主なる唯一の真の神」への信仰を何よりも必要としています。
最後に、「神のものとなった民」。直訳すれば、「神の所有の民」です。神は私たちをご自分の宝の民とされた、とありました。使徒20:28によれば、神様は教会を本当にご自分の所有とするために、「御子の血をもって買い取ってくださいました」。ご自身の御ひとり子の命を犠牲にしてまで、私たちを尊び、愛し、私たちをご自身の宝の民としてくださったのです。
それには、何か目的があったのでしょうか。あったのです!Cf.9b節。「あなたがたを」が、特に強調されています。私たちを暗闇の中から驚くべき光の中に招き入れてくださった!これこそが神の力あるみわざです。
私たちはかって闇の中に沈んでしまっておりました。神もなく、希望もないものでした(エフェソ2:12)。聖書で言う「暗闇」とは、霊的暗闇のことですね。神がおられない。そして、希望もない。私たちもかつては、そのような状態の中で、もだえ苦しみ神を求めたのであります。
今、世の中には、このように、自分では気づいていなくても、暗闇の中で神をさがし希望の光を求めている人が何と多いことでしょうか。昨日のニュースでは、昨年度も、自殺した方の数は3万人を超えたということです。教会はこのような人たちに天地の造り主である神様のことを伝えなければなりません。
「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力あるわざを,あなたがたが広く伝えるためなのです」(9b)。この「力あるわざ」は、正に神の御業であると同時に、また、主イエス・キリストのみわざでもあります。イエス・キリストこそ、その十字架と復活によって、私たちの人生を闇から光へと、絶望から希望へと移し替えて下さった方だからです。かつては、神もなく希望もなかった私たち、自分の人生を絶望的と思っていた私たち、そのような私たちを180度、希望の人生へと変えてくださったのは、十字架の主であり、復活の主でありました。この方に今日、今一度心も体も明け渡しましょう。そして、「神共にいます」希望の人生をもう一度歩み始めましょう。そして、この1年、私たちの人生を変えてくださった主の大いなるみわざを一人でも、二人でもいいです。家族や友人にひろく伝えてまいりましょう。
それでは、お祈り致します。
2010年01月31日(日)
2010年の新年も今日で、最初の月が終わります。この一月、5回の主の日がありましたが、いずれも、今年2010年が私たちの教会にとって伝道開始30周年の年であると言うことを念頭において説教をしてきました。今日は、第五聖日、1月最後の聖日ですが、もう一度、30周年ということを念頭においたみことばの学びを共に致したいと願っています。題して、「互いに仕え合う教会」。「奉仕」に焦点を当てて、これまでの歩みを振り返り、主に感謝すると共に、また、将来に向けて姿勢を整えたいと願っているのです。
伝道開始30周年の今年、この教会で牧師として奉仕させていただいて思いますことの一つは、実に多くの主にある奉仕がこの教会において献げられてきたということです。それは、1階の書棚に置いてあります10冊ばかりの教会アルバムを見てもわかると思います。そして、さまざまの活動の会計帳簿や、書記記録等も1階の会議室には保管されておりまして、それを見ますと、色々のなつかしいお名前が出て来て興味深いのですが、これだけ様々な活動・奉仕がなされてきたのだということを思い巡らすことができるわけです。そして、教会組織をしました1993年からの10年間は教会奉仕を整えるための執事会もできまして、本格的な奉仕の業が10年間なされたわけです。
このように、「奉仕」という面で、この30年間、多くの恵みの業を許されてきた私たちの教会でありますけれども、この節目の年に当たって、今一度、奉仕とは何かということについて、みことばの原理を学び、姿勢を新たにすることも必要ではないかと思うのです。
与えられた聖書の個所は、Tペトロ4:7〜11です。
先ず、7〜8節は、奉仕についての中心的な教えへの序説の役割を果たしています。それは、「心を込めて愛し合う」と言うことです。この部分は、すべて動詞は二人称複数形となっていますから教会全体への教えとして読むべきです。「愛し合いなさい」「もてなし合いなさい」「互いに仕え(合い)なさい」…「合う」とは一つとなると言うこと。教会全体が祈りにおいて、愛において、奉仕において、一つとなることが強調されています。
10節…「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。
奉仕というのは、新約聖書のギリシャ語では、ディアコニア。元々の意味は、食卓の給仕の務めを表す言葉です。ここから、もう少し一般的に、奉仕の意味でも用いられるようになりました。
それで、奉仕という場合、一般には、他の人の必要を満たすため仕える、働く、手伝う、自分をささげる等の意味で用いられることが多くなっていす。最近では、奉仕という替わりに「ボランティア活動」等という場合がありますが、教会的には、「奉仕」と言う方が定着しているかと思います。そして、聖書では、このTペトロ4:10のように、神からの賜物を用いて互いに仕え合う、と言うように、神から戴いた賜物との関連で奉仕を考えることが多い。
もう一度、Tペトロ4:10を読む。
「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっているのですから」…先ず、私たちは、各自それぞれ例外なく、誰にでも何らかの賜物が与えられていることを先ず感謝をもって認めましょう。そして、それを、ただ自分のためだけに用いるというのではなく、互いに仕え合うために、教会のため、キリストのため、神様のために生かして用いる、というのがここで言っております奉仕です。
ここでは、みことばの説き明かしと執事的奉仕が奉仕の代表的な令としてあげられていますが(11)、より広く考えれば、「車が好きだ」、「車の運転が得意だ」というのも、一つの賜物でありましょう。「パソコンができる」というのも、賜物でしょう。
賜物は私たちが自分で獲得するものではなく、何と言っても神様からいただくものです。英語では、ギフトと言う。ですから、自分はこういう賜物を神様から戴いているのだなと気づくのは信仰によるのです。その場合に、自分に与えられている賜物(才能)、或いは他の兄弟姉妹に与えられている賜物に気づくという場合、ペトロが「神のさまざまな恵みのよい管理者として…」と言っていることに注意してください。「さまざまな」…「色々な」と訳した方が原意に忠実。本来、「色とりどりの、様々な色をした」という意味の言葉です。本当に、神様は私たちに色々な賜物を、各自にお与え下さっていまする。一様ではありません。そのことを私たちは自分自身について、また、兄弟姉妹について、このような賜物の多様性のことをよく知って、互いに他の方に与えられている賜物を感謝し、尊重し合いたいものです。そして、常に「へりくだって相手を自分よりも優れた者と考え」るようにしたい(フィリピ2:4)ものです。
そうして、一番大切な所ですが、賜物を生かして用いるようにとペトロは命じています。そしてそのことによって互いに仕える者となれ、と言うのであります。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
どうすれば、賜物を生かして用い、互いに仕える者となることができるのでしょうか。ここの所を直訳すれば、「各自その賜物を教会のために給仕せよ」となる。賜物を差し出して他の人の必要を満たす、教会の必要を満たすようにせよ、ということ、です。
神様から各自戴いている多種多様な賜物を教会のために生かして用いる、これほど幸いなことはありません。これほどに生き甲斐を覚えることは他にありません。普段余り教会の事に関心がないように見える若い兄弟姉妹でも、色々の奉仕をお願いすると、驚くほどの熱心を示してくれるということをよく知らされます。
今後とも、私たちは各自が神様から戴いている賜物をよく知り、それを生かして用い、互いに仕える者となりたい。教会形成という見地から言えば、各自の奉仕がばらばらに単発的になされると言うのではなく、主にある奉仕の業が、それぞれ結び合わされて教会形成へと積み上げられて行くようにと願うものです。
そのとき、私たちの奉仕の業は、本当に「賜物を生かして用い互いに仕えなさい」というここでのペトロの教えによく適うものとなります。また、昨週の御言葉との関連で言えば、各自「生きた石」となって「霊的な家に造り上げられ」てゆくのです(Tペトロ2:5)。
一人の兄弟(姉妹)が教会のためになして下さった貴い奉仕の業が後の者によって確実に継承され、さらに、進展を見るためには、何らかの形で、その奉仕について、報告し、必要ならば、引き継ぎも行っておくことも忘れないようにしたい。それは、「神のさまざまな恵みの善い管理者として」(10)主と教会に仕えようとするとき、一つの大切な心得であると言えるでしょう。そうして、教会の奉仕の担い手が換わっても教会形成は継続されて行くのです。
最後に、使徒ペトロは神への頌栄をもってこの項を締めくくっています。新共同訳での最後の文は「神にありますように」となっているが、前の文の「イエス・キリスト」を受けて、「イエス・キリストにありますように」とも訳すことが十分に可能です。私は、その方がこの項全体の文意に適っていると思います。賜物を生かして用い互いに仕えることを、根本的な所で教えてくださったのは、イエス・キリストの愛であります。主はご自身の十字架の死と復活によって、私たちに愛を教えてくださいました。互いに愛し合うことを教えてくださいました。私たちの主であり、師であるこのイエス・キリストが私を愛し、あなたがたを愛し、さまざまの賜物を豊かにお与え下さいましたから、私たちは互いに愛をもって仕え合うことができるようにされたのです。このキリストとその父なる神に栄光と力とが世々限りなくありますように。
きょうは、1月最後の主日礼拝ですが、このイエス・キリストを改めて信じ受け入れ、新しい思いをもって明日から始まる新しい月の歩みを始めたいと思います。
お祈り致します。
2010年01月24日(日)
今日は、年度初めの定期会員総会の日であるから、特に、今年度年間標語として掲げたいと願っております「教会に生きる」ということについて御言葉を学びたい。
今の時代、教会とか、教会生活を強調する組織的宗教(組織や団体を持つ宗教)は余り人気がなくて、むしろ、個人宗教、即ち、教会や寺などに行かなくても、自分で本を読み、DVDを見たりして、祈りや修行なども自分にあった仕方で宗教的な情感を養うと言った個人的宗教、が多くの人々の求めるところとなっています。それで、本屋さんなんかに行きますと、宗教書は沢山並べられていますし、結構売れている、また、そのような書物の著者である、有名な宗教家が講演などしますと、大勢の人が聞きに行くわけであります。自分の属する教会で、いつも同じ牧師から説教を聞くよりもその方が学ぶところが多いと言うわけでありましょう。
さらには、そのような個人的宗教の方が、煩わしい人間関係で悩んだりすることもないし、お布施や献金の義務もずっと軽くて済む、と言ったこともあるのかも知れません。
それで、教会や教会生活を強調するキリスト教宗教などは、世間的には、余り人気がなくなってきています。一昔前(例えば、戦後10年、20年くらいのキリスト教ブームと言われたような時代)に比べますならば、人気が落ちてきているようであります。
けれども、私たちは、にもかかわらず、今年、主の2010年、筑波みことば教会にとっては伝道開始30周年の年でありますが、敢えて、「教会に生きる」というこの年間標語を掲げたいと思うのです。なぜか。
私たち改革派教会の大先輩である、ジュネーブの改革者カルヴァンは教会の事を「母なる教会」と呼びました。もっとも、このように教会の事を「母なる教会」と申しましたのは、カルヴァンが最初ではなく、彼以前から多くの教会人たちがそのように言っていたのだと思いますが、カルヴァンはその『キリスト教綱要』の第4編「教会について」の中でこのことを強調しています。カルヴァンは、真の教会の事をすべての敬虔な者にとって母のような所であると申しまして、なぜならば、すべてのキリスト者は「この母の胎に身ごもられ、この母から生まれ、その懐で育てられ、その保護と支配の下に守られて、終に死すべき身体を脱ぎ捨てて天使のようになる(マタイ22:30)ことに至るのでなければ、命に入る道はないこととを学ぶのである」と、このように書いています(4:1:4)。
教会は、そこでクリスチャン御言葉を聞いて霊の命を戴いて、生まれ、育まれ、成長をし、そして、終に救いを自分のものとする所、そういう意味で、信者にとっては、教会は「母なる教会」である、といっているのです。「母なる教会」…これはすばらしい比喩ですね。
確かに、教会の交わりのただ中で生きることは、いつもいつも楽しいことばかりではありません。小野静雄先生(現大会教育委員長)も「教会で生きることは並大抵のことではない。そのことを否定できない。教会に生きることは労苦と忍耐の多い仕事です」(『リフォルマンダ』2004年6月号)。本当にそうです。もう教会に来たくなくなるような思いに駆られることも時にはあります。しかし、実際に煩わしいからと言って母なる教会から外へ出て行ってしまいますと、もはやそこには、私たちがあれほど慕い求めたキリストの命はなく、信仰と愛と謙遜の訓練も受けることができない。クリスチャンとしての霊的成長も止まってしまう。そしてやがて命は枯渇してしまうのです。
母なる教会で「霊の乳]を戴いて、生まれ成長すると言う真理を、最もよく言い表しているのがTペトロ2:1,2です。
1~2節を読む。
悪意…(ある注解書によれば)私たちの罪深い性質(原罪)から出てくるるもの。隣人に対して何か苦痛や害悪を与えたいという欲心のこと。ですから他人事ではないですね。自分自身も注意しないと、知らず知らずのうちに他人に対して、悪意を持ってしまうものものなのですね。だから、御言葉を聞くときにはそのような悪意や、偽り、偽善、ねたみや悪口と言われておりますものを皆きっぱりと捨て去って、(きっぱり、が重要)「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とペトロは私たちに勧めるのです。
赤ちゃんは母親から貰うお乳だけが生きるための糧ですから、それはもう大変な勢いで、乳を飲み続けます。「慕い求める」というのは、もともと「熱望する」「切望する」という意味の言葉ですが、そのような、大変な勢いで、乳を飲み続ける赤ちゃんの飲みっぷりを思い起こさせる表現となっています。世の人々に特徴的な悪意や偽善などをきっぱり捨て去って、私たちは本当に飲みっぷりよく霊の乳を慕い求めるということ。これが教会生活の中心におくべき第一の重要性を持つことです。
3,4節…ここでは、イエス・キリストのことを「生きた石」と言っています。九州熊本で伝道していたときのこと「教会にはご本尊がありますか」と尋ねられたことがあります。その時は、「いや教会にはご本尊はありません。何か木や石で作られた見える形のご本尊はありません。けれども、今目で見ることはできないが、私たちの心の中におられ、聖書全巻が語り伝えているイエス・キリストという方が、敢えて言えば、ご本尊と言えるかも知れません」とお答えした記憶があります。このキリストが教会の中心にいます方です。私どもが混じりけのない霊の乳である御言葉を慕い求めたとき、主が恵み深い方であることを知るようになります。
2:4で,
この方は、「生きた石」と呼ばれています。普通、「石」と言う場合、石は生きておりませんから、「生きた石」というのは、矛盾のように聞こえるかも知れない。しかし、「石」は、6~8節を見ればわかるように、旧約聖書では、メシアの比喩として用いられる場合があるのです。例えば、7節の「隅の親石」もメシアのこと。
なぜイエス・キリストが「生きた石」と呼ばれるのかと言えば、この石に触れる者に命を与えるからです。そういうメシアだから「生きた石」と呼ばれるのである。
ですから、教会で御言葉を聞き、この「生きた石」と信仰によって結びつけられるとき、私たちもまた、一人一人が「生きた石」となって、用いられるようになるのです。もちろん私たちの場合は、イエス様のように初めから「生きた石」と言うわけではないのですが、イエス様と信仰によって結びつくと、私たちも「生きた石」として用いられるようになるのです。Cf.5節a。
このように、教会で、イエス様の御言葉を聞いて、信仰によってイエス様と結びつき、私たちも「生きた石」として用いられるようになるのですが、そこで、何をするのかと言えば、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」とペトロは言っています(5b)。
祭司…旧約聖書以来、礼拝に仕える人、神と人との間に入って礼拝を守ることができるようにとりなし仕える人のこと。宗教改革以来、プロテスタントの教会には、万人祭司という言い方がしばしばなされます。言わば、、信徒すべてが、祭司となる、仕える人となる、奉仕者となる、ということ。これは、またすばらしいことではないですか。
私たちは教会に来ます。初めしばらくの間は、教会生活に慣れないと言うこともあって、お客様意識が抜けきれません。しかし、御言葉を聞いている内に、段々とキリストのため、教会のため、兄弟姉妹のために何か役立つことをしたいと思うようになる。そういう思いが内側からわき上がってくる。これが奉仕へと私たちを道いて行くのです。聖霊のお働きです。生きた石らしく、生き生きとした信者になってくるのです。
30周年の記念行事で聖書朗読やその他の様々なご奉仕に協力いただく場合でも、このように、今日の御言葉が言うように、「聖なる祭司となって」参加しますと、30周年の行事がもはや他人事ではなくなります。わたしにとって大事なみことば教会が生まれてから30周年、「私の、私たちの30周年]だから、私も生きた一つの石、聖なる祭司として、参加したいという願いへと導かれるのであります。
今年、2010年が私たち一人一人にとってそのような「教会に生きる」年となるように願っています。
お祈りします。
2010年01月17日(日)
「主イエス・キリストの恵み」という今日の説教題。何か漠然としているように思われるかも知れません。実は、元々の意図は、会員総会直前の主の日だから、「自発的献金こそ神に喜ばれる献金である」というような、献金の精神について、一度お話ししておこうと思ったのです。献金の精神について説教するような場合には、よくこのUコリント8,9章がテキスト(説教のための聖書個所)として選ばれるのです。
しかし、ここの個所を何度か読んで行く内に、はっと気づきました。ここに教えられている御言葉の原理は、献金についてもちろん有効なのですが、しかし、奉仕についても当てはまるのではないかと。
興味深いことに、この8,9章には、「献金」という言葉はほとんど出てこない。「募金」(8:20)くらいのもの。あとは、「慈善の業」とか「奉仕」「施し」というような言葉ですね。そして、献金や慈善の業のことを「神の恵み]と呼んでいる所が多いですね。
そういうわけで、このUコリント8,9章は、貧しい人たちが多かったエルサレムの教会を援助するために、パウロが、マケドニアの教会の例を引きながら、コリントの教会に献金を勧めている「献金の勧め」の御言葉でありますけれども、私たちにとって、献金の姿勢について学ぶところの多い個所であると同時に、また教会における奉仕についても、同じように大切な原理を学ぶことができるのです。
ただ奉仕という場合、日常的な教会の礼拝や諸行事のための奉仕(例えば、毎週の会堂掃除や愛餐会のための食事作り、週報や月報、年報などの印刷等々)があると同時に、春秋の特伝集会やクリスマスのキャンドルライトサービスといった特別な行事のための奉仕もあるわけです。今年は、特に5月に伝道開始30周年の記念行事を致しますので、そのための奉仕と言うことも私たちにとっては、重要な機会となるわけです。「聖書を読む」ということも含めてこの記念行事への参加も、主への奉仕、教会への奉仕の重要な機会として位置づけることができるのではないでしょうか。
今年いただいた年賀状の中に、同じ東関東中会の船橋高根教会の長老さんからのものがあり、「5月の聖書リレー朗読には参加させていただきます」と書いてありました。先日の中会・教師の働きでその長老さんと一緒だったのですが、帰りがけに、「宮ア先生、5月の聖書リレー朗読には寄せていただきます。ひょっとしたら、もう3,4名一緒に連れて行くかも知れません」とまた言われましたので、「ああ、ぜひいらしてください」とお答えしておきました。
このように同じ中会内の他の教会の方から参加の申込を戴くようになりますと、一度に、この聖書リレー朗読という記念行事の性格がわかってきます。これは、単なる修養会ではない、内輪の記念集会でもない、これは、やはり一つのイベントなのだということに気がついてくるのです。内外から、筑波みことば教会の伝道30周年を祝って駆けつけて下さる方たちも一緒になって聖書をリレー朗読する一つのイベントなのだということに気づくわけです。
学校で言えば、差し詰め、文化祭とか学芸会・音楽会といったところでしょうか。或いは、教会で言えば、ミニバザーならぬ、もう少し規模の大きいバザーのようなイベントとなるのかも知れません。ただ内容は、あくまでも「新約聖書全巻リレー朗読」です。そういう意味では、祈りによって支えられなければならない霊的なイベントなのです。
しかし、お客様・助っ人に来ていただく以上は、やはり、恥ずかしくないように準備しておかなくてはなりません。パウロも、自分が推し進めようとしている募金運動について、同じようなことを気にしておりますね。Cf.9:3,4。パウロは、コリントの教会の募金についての熱心をマケドニア教会の人々に伝えておりました。「もうすでに、コリント教会では、エルサレム教会のための募金を始めているそうだ」と。それで、パウロとマケドニアの信徒の方たちがコリントに行ったときに、まだ用意ができていないという状況であるならば、「恥をかくことになる」から。予め数名の兄弟たちを派遣して、ちゃんと準備を整えておくように促したいということなのです。
私たちも5月の連休に助っ人のお客様を迎えるまでに準備をよく整えておくことが大切だと私は考えています。昨年の実行委員会を中心とした準備は、どちらかというと、旧新約聖書66巻、1189章をどうすれば、また、何人で、96時間かかって読み通せるかと言う、算術的なものであったかも知れません。しかし、これからは、多くの方を祈りと笑顔の挨拶をもって迎え、共に30周年の感謝をもって聖書を読むという、より霊的なものとなるでしょう。
それで、先日も、女性の会の役員の方たちに、ぜひ女性の会として、ご協力いただきたい旨、お願いをしました。ぜひ、今日午後行われる総会において、これは女性の会としては、当然と言えば当然のことですけれども、今年の年間計画の一部として、30周年記念行事への協力を決めていただきたいと思っています。私としては、現会長のもとで一致してご協力いただければと願っています。
それで、こういった記念行事のための奉仕ということなのですが、私どもがきょうの聖書の個所から学ぶことができることは、ただ一つだけです。それは、献金でも奉仕でも同じなのですが、「神に喜ばれる奉仕(献金)は自発的なものである」ということです。9:6-7
もう一度読んでみましょう。今日の聖書の個所の中でも特に重要な個所であるというべきでありましょう。
「つまり、こういう事です。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」
たしか、私たちの用いている献金袋にこの聖句が印刷されていたのではないでしょうか。もし献金が強制されてなされたとしたら、それはもう献金とは言えませんね。それは、税金のようになってしまいます。神様に喜ばれる献金とは言えません。
全く同じ事が奉仕についても言えます。いやいやながら、強制されて行う奉仕というものがあり得るのかも知れません。戦時下において、国の命令でよく行われたと聞いております「勤労奉仕」等は、そういった奉仕の部類に入るのかも知れません。私自身は経験がないので、わかりませんが。けれども、そのような強制されて行う奉仕は、ここでパウロが言っている神に祝福される奉仕とは全く別物です。ここでは、パウロは「喜んで与える人を神は愛して下さるからです」と言っています。
このような「喜んで献げる献金」「喜んで与え、喜んで行う奉仕」
…これは、世の中の計算高い人間には難しいことかも知れません。何か損をしたような何か失ったような気持ちになるのでしょう。よしかし、キリスト教会では、「喜んで献げる献金」「喜んで与え、喜んで行う奉仕」…これが普通のこととなっている。なぜでしょうか。何がそうさせるのか。やはり信仰ですね。特に「主イエス・キリストの恵み」を知った者にとって、この「喜んで献げる献金」「喜んで与え、喜んで行う奉仕」が、不思議と、たやすいこととなります。それほどに難しい事ではなくなってきます。「主イエス・キリストの恵み」を知っているからです。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(Uコリント8:9)。これも、もう一つの大事な聖句です。
主は神としての身分境遇において豊かさの極みにあられたのに、そこに留まることに固執されないで、身分の低い処女の胎に宿り、宿屋がなくて、家畜小屋にお生まれになった。その後、苦難に満ちた御生涯を送り、終に、十字架にかけられ、一身を犠牲にされるまで、へりくだられたのである。
この「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで神に対する従順を尽くされた」キリストのへりくだりこそが、ここで、「キリストの恵み」と言われているものです。
そして、みことば教会の皆さん、この 「主イエス・キリストの恵み」こそ、私たちの差し出します、すべての惜しみない奉仕や献金の源である。クリスチャンはみなこの「主イエス・キリストの恵み」を知っています。この「主イエス・キリストの恵み」を戴いて豊かにされた者であることを知っています。ですから、喜んで与える者となりたいと願うようになるのです。
このようなクリスチャンとしての信仰と愛を5月には、それぞれの力に応じて、言い表し実践していただきたいと思います。そうすれば、本当に、「助っ人」として来てくださるお客様方と、よい交わりの中で、伝道開始30周年を共に感謝し、お祝いすることができます。
お祈りします。
2010年01月10日(日)
主の2010年となりましてから、もう10日を過ごして参りました。2010年と言えば、何度も言うようでありますけれども、私どもの教会が、このつくばで、改革派信仰による伝道を始めましてから30周年に当たります。
それで、5/9の主の日には(現在はCRCのラジオ牧師で、この教会の牧師も92年〜98年、6年間務められた)山下正雄先生を迎えて、記念礼拝を守り、記念講演を伺うこととなっている。また、その直前の、5月4-5日の連休には、聖書リレー朗読会を、記念行事として、皆で力を合わせ、また、近隣教会或いは中会関係諸教会の協力も仰ぎながら、開催しようと願っているところです。
それで、今日は、1月の第二回目の聖日でありますので、もう一度30周年記念行事に関わる説教をしたいと思います。題して、「旧約聖書とはどういう書物か」。
最初にこの説教の構想を練り、題を決めたのは、昨年のクリスマス前であって、その時は、まだ、聖書全巻リレー朗読をおこなうという委員会の方針でした。それで、旧約のお話しをしなければと考えていた次第です。その後、新約聖書の全巻朗読と言うことに替わったのですが、それでも、新約を本当に読み神様の御言葉、キリストの御言葉として読み、理解するためには、どうしても旧約聖書の学びと理解が必要です。そのことに全然変わりはありません。これは、古代教会最大の教父で神学者のヒッポの監督アウグスチヌスが旧約と新約の関係について、「旧約の光に照らして、新約を読み、新約の光に照らして旧約を読みなさい」という有名な言葉を残している。そういったことからも、私たちの新約を正しく読むために、旧約の学びが欠かせないことがおわかりいただけると思います。
それで、今日は、新約の光に照らして読むならば、旧約とはどのような書物か、言うことについてお話ししたい。
お話しします聖書の個所は、ルカ24:44〜49です。十字架にかけられた後、復活されて、弟子たちに現れなさったときに、聖書についてお教えになった大変重要な個所であります。私たちは、昨年8月までずっと連続的にルカによる福音書を学びましたので、今日の箇所もすでに一度学んだことがあります。しかし、こういう重要な個所は何度も学んでおく必要がありますので、どうか、今日も主の御言葉に耳を傾けてほしい。
44節。ユダヤ人の聖書、我々の言う「旧約聖書」は三つの部分から成っている。
@律法…モーセの律法
A預言者
B諸々の書物…その筆頭が詩編
「モーセの律法と預言者の書と詩編」…これで、旧約の全巻を当時は著していたわけです。ですから、ここで、イエス様は、「私(イエス・キリスト)について、旧約聖書全巻に書かれていることは、必ずすべて実現する」と言っておられる。旧約聖書全巻は、すべてイエス様について書いているのだと言うことが分かりますね。これがキリスト教的な(キリスト中心的な)旧約聖書の読み方です。
Cf.ルカ24:25〜27「ご自分について」。復活の主イエス様の教えによれば、旧約聖書はイエス様ご自身について書かれてある書物だと言うことを、先ずは、ご理解いただきたい。
さらに、45節以下で、イエス様は次のように言っておられる。45〜47節を読む。ここの御言葉を読む場合に、大切なことは、『』の中に書かれてある御言葉は、そのままの形で旧約聖書のどこかに書いてあるのかということです。「メシアは…復活する」にしても、「罪の赦しを…宣べ伝えられる」にしても、旧約聖書の中に捜しても、中々ここという所が見つからないのです。それで、ここの所は、旧約聖書のどこかの個所から直接的に引用しておられるのではないというふうに考えざるを得ない。
それでは、『』の中に入っているのは何なのでしょうか。旧約聖書全体の内容のサマリーなのでしょうか。正にそうなのですね。『』の中に入っている文章は、旧約聖書全体のメッセージのサマリー(要約)なのです。
先程、私たちは旧約聖書の全体がイエス様ご自身について書かれているのだという、イエス様ご自身の教えについて学びました。そして、「イエス様ご自身」のことというのは何か、ということについて、さらにイエス様は、この46,47節において、それは、十字架の苦しみをうけること、その後(三日後に)復活すること、そして、イエスの名を信じた者は皆救われるという福音が全世界に宣べ伝えられる、ということだと言っておられるのです。
ですから、旧約聖書は、モーセの律法も預言者の書も詩編も、皆このようにイエス・キリストの事について、その十字架の御苦しみと復活について、またその福音が全世界に宣べ伝えられることについて預言的に記している、そして、そのような預言が今、あなたたちが、見てよく知っているように、私の受難と復活の中で、すべて実現したのですよ、と、このように、イエス様はここで言っておられるのです。
このように、復活のイエス様ご自身の教えに従って、旧約聖書に苦難と栄光の主の福音を読み取ることができるようになりますと、私どもにとって、旧約聖書は俄然面白くなってきます。面白いだけではなく、もう本当に私どもクリスチャンにとってなくてはならない人生の導きの書となります。とりわけ、様々な困難に打ち勝つ力をいただくことができる、そういう書物となってきます。もう離せない、と申しましょうか。
Cf.創世50:20「あなたがたは私に悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」ヨセフ物語の、メッセージですね。これも内容的に言って、新約のメッセージ、イエス・キリストによる苦難と栄光を預言していると言えないでしょうか。ヨセフはお兄さんたちの悪巧みによって、ずいぶん苦しみました。エジプトに売られて行き、そこで、ファラオの宮廷の役人ポティファルの家に引き取られたのはよかったが、主人の妻に意地悪をされ、無実の罪に問われ、獄中生活を長く強いられることとなる。多くの苦難を経るのでありますが、しかし、神様のご計画は、それら苦難の一切を用いて、ヨセフを国の最高司令長官の地位に引き上げると共に、飢饉に苦しんでいたイスラエル民族をお救いになるのです。これは、正に苦難と栄光の主、十字架と復活の主イエス・キリストの御生涯と、その御業によって全世界が福音の希望に生きるようななった新約のメッセージを予告するものです。私たちはヨセフ物語の中に、キリストの福音を読み取ると同時に、私たちのクリスチャン人生の一つのモデル、或いは、型を見て、苦難の中における慰めと希望を持つように導かれるのです。
Cf.詩編119:107「私は甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させてください」。先ず私たち自身の人生経験と重ね合わせてみます。本当に、事がうまく運ばず、世間からの評価も得ることができず、心が落ち込んだりすることがあります。しかし、神に思いを向け、御言葉に聞くときに、神はそのような中にあっても私たちに諸々の恵みをもって希望を与え、勇気を与え、命をもって養ってくださることを知るのです。
そして、私たちは、この詩編の聖句が正に主イエス・キリストの十字架の御苦しみと、その後の復活を予告するものであることに気づきます。そうすると、イエス・キリストのお受けになった辱めに比べて今自分が受けている辱めがどんなにとるにたらないものであるか、また、そのような辱めをお受けになったイエス様がその後、復活の命をお受けになったことに限りない慰めを覚えるようになるのです。
「苦難を経て栄光に入れられる」これはイエス・キリストの御生涯とその教えの特徴です。ルカ24:26,27、24:46,47。
これは、また、クリスチャン人生の特徴でもある。苦しみを経なければならない。しかし、それを経て後、必ず栄光に入れられる。Cf.諸々の病と様々な苦しみに打ち勝って、自分を信頼してくださった神を讃えた三浦綾子さんのことを思うべし。
また、このような「苦難を経て栄光へ」と言うこのキリストの御生涯と教えの特徴は、旧約聖書の全巻においても見られるものです。
私たちは、このようなイエス・キリストの十字架の苦難と復活を旧約のすべての書において読み取りたいものです。
そのためには、日頃から聖書に親しみ、祈りつつさらに聖書を読むことです。30周年記念行事がそういった私たちの聖書を読む熱心をかき立てるイベントとなるように祈りたいと思います。
それでは、お祈り致します。
2010年01月03日(日)
新年おめでとうございます。
2010年となりました。私どもにとって、今年は伝道開始30周年の年です。1989.5.11〜2010.5.11 満30年となる。5/9の主の日に山下正雄先生を迎えて、記念礼拝を守り、記念講演を伺うこととなっている。マタイ、記念行事として、直前の5月連休中に「聖書リレー朗読会」を行うこととなっています。
先ほど、子供たちに話しましたが、30年間にこの筑波みことば教会において1560回の礼拝をささげました。礼拝をささげたということは、そこで聖書が朗読され、それに基づいて説教がなされ、またそれと共、たびたび聖餐式や洗礼式と言った聖礼典が守られてきたと言うことです。
説教や礼典のすべては、イエス・キリストが世々に亘って教会で執り行うようにとお命じになったことです。そのイエス様がマタイ18:20でこう言っておられます。「二人三人が私の名によって集まるところ、そこに私もいるのである」。これはよく祈祷会の祝福との関連において引用される聖句ですが、毎週の主日礼拝にも十分に適用することができます。
毎週、私たちは礼拝に集まって来るのですが、それは、そこに私たちの主イエス・キリストがおられることを知っているからです。それで、遠くから近くから集まって来るのです。礼拝はキリストの名によってささげられるものであるから、そこにおられる。キリストが親しくご臨在下さるのである。このキリストのご臨在こそ、教会が教会たる最も大いなる現実です。
そもそも教会とは一体何でしょうか。
日常会話においては、教会とは教会堂を指すのが普通でしょう。「教会はどこですか」「そこを曲がって右側にありますよ」。こういったやりとりはごくごく日常的なものです。しかし 聖書には教会堂のことを教会と教えている例は一つもないのではないか。
聖書において教えられている「教会」の定義には色々ありますが、「キリストのからだ」とか「聖徒の交わり」等々です。もう一つ、教理や組織神学の教科書などを見ると、「教会の標識(マークス)」ということが教えられている。カルヴァンの『キリスト教綱要』の日本語版(渡辺信夫訳)では、教会の「旗印」と訳されている。
教会の標識・旗印とは、最低限どのようなことが行われていれば、そこに真の教会があると言えるのか、と問題である。教会らしい建物が建っていたとして、その中味はレストランや結婚式場というような場合も最近は多くあります。これは真の教会とは言えないわけです。
教会の標識(マークス)というのは、普通は、純粋な御言葉の説教と聖礼典(洗礼と聖餐式)の執行です。この二つがある限り、そこには確かに真の教会が存在していると言えるのです。正に「教会ここにあり」ということです。
この二つに、戒規の執行を加えることもあります。きょうの聖書の個所に戒規をどのように行うべきかについてイエス様が教えておられるところがありました(18:15〜18)。教会員が「罪を犯した」場合にそれを放置しておくのではなく、個人的に或いは教会として、戒め、悔い改めを促す、これを「戒規」と申します。そして、教会に罪が蔓延して道徳的に汚れたり腐敗したりしないようにするため、また何よりも本人が罪の故に滅びてしまうことがないように、悔い改めを促すわけです。このことがきちっとなされていることも真の教会の標識の一つだとする立場も改革派教会の中にはあります。
私どもはきょうは、普通一般的に教会の標識と考えられている二つのこと、即ち純粋な御言葉の説教と聖礼典の忠実な執行に一応限って、この30年の恵みを振り返ってみたいと思う。
前述のカルヴァン「キリスト教綱要」は、キリスト教会においては、古典中の古典とも言うべき書物です。その4編1章9節で、彼は、教会の標識について次のように言っている。「教会の姿がわれわれに出現し、また目に見えるようになるのはここからだ。なぜなら、『二人三人が私の名によって集まるところ、その中に私もいるからである』との(マタイ18:20)の約束は欺くことの有り得ないものであって、神の言葉が真摯に説教されまた聞かれる所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所、そこに神の教会があることは何ら疑うべきでないからである」。
30年間にこの筑波みことば教会において1560回、礼拝が守られてきたと申しました。1560回、改革派教会において正規に認定された牧師たち教師たちによってみことばの説教がなされ、そしてその間、毎月のように礼典を守ってきた、その度ごとにキリストはそこに臨在し、聞く者にご自身の御旨をお教え下さった。またキリストの霊である聖霊のご臨在もありました。
そのような中で、この教会において、子供たちも合わせてでありますけれども、51名の者が洗礼を受け、更に多くの者たちはここで御言葉を聞いて他の所に移り、そこの教会で洗礼を受けたり、長老・執事として活躍しておられるのです。これは本当にすばらしいことです。この30周年の年、このような主のすばらしい救いの御業を覚えて神に感謝を献げたいと思います。記念行事を行うということはまず感謝をささげる事です。感謝することを忘れてはなりません。
そして、次にもう一つ大切なことは、悔い改めて新しい出発をするということです。毎週の礼拝でキリストのご臨在に親しく与りながら、私たちはそのような恵みを受けた者にふさわしい信仰のよい実を結んできたかどうか、反省してみることが必要です。
この30年の間に、私たちの教会は、「教会」から「伝道所」への種別変更という大きな悲しみ・試練を経験しました。私たちはこの30周年の年にこのことについてもはっきりと悔い改めて新しい出発をしなければならないと思っています。
一つの悔い改めの道として、きょうの御言葉との関連で申しますならば、キリストが臨在される礼拝・諸集会をもっと大事にする・重んじるということを挙げることができるでしょう。キリストのご臨在をもっと喜び、みことばを求め、もっと飢え渇いた思いをもって諸集会に集うことです。
主日礼拝については、昨年は礼拝出席者数が20名を切るまでになりました。12月末の統計を取ってみると、一年間の平均礼拝出席者数は19.5名でした。やっと四捨五入して20名です。最近の筑波みことば教会は右下がりだと言われても仕方がないのではないでしょうか。悔い改めがなくて良いはずがありません。
週間の水曜祈祷会(「聖書の学びと祈りの集い」)については、30年の歴史の中で盛んな時もあったと聞いています。けれども私がこちらにきて2年後くらいからでしょうか。誰もこない(牧師夫妻だけ)という時期が長く続きました。最近は、客員の兄弟姉妹たちの熱心な参加があって、大いに励まされています。
水曜日の祈祷会には誰も来ないということはこの教会の体質 のようになってしまったかのようです。この体質を変えることは容易ではないかも知れませんが、今年悔い改めの一歩を踏み出したい願っています。
ある先輩の牧師は「祈祷会がその教会の実力だ」と言われたそうです。礼拝に何十人何百人出席しても、祈祷会に出席する人が少なければその教会の実力はやはり弱いというわけです。例えば、牧師に何か事故が起こった、教会に重大なことが起こった、その時に何をおいてもかけつけてくる人は、大体祈祷会に来る人数だという風にも言われることがあります。そのくらいに、自分の教会に対する愛情と責任意識が弱くなっている教会が、今の日本には多いのです。私たちも悔い改めなければならないのかも知れません。もちろん、皆さま方一人一人ついてどうのどうのと言っているわけではありません。それぞれ職場や家庭の事情がありますし、また、皆さま最善を尽くして教会の集会に出てこられることもよく知っています。私はむしろ、長年に亘って培われてきた教会の体質について懸念しているのです。悔い改めの必要を覚えているのです。
悔い改めとは、ただ自分の弱さを自覚して、自分はダメだ、自分には何もできないと反省することではありません。悔い改めは、聖書では、「命に至る悔い改め」と言われています。ウエストミンスター小教理問答87では、これも「救いの恵みです」と述べた後で、これによって「罪人は自分の罪をほんとうに自覚し、キリストによる神のあわれみを理解して、自分の罪を嘆き悲しみつつ、罪から神へと立ち帰り、新しい服従をはっきりと目差し努力するようになるのです」と教えています。悔い改めとは、全く神の恵みによることで、そういう意味では、受け身なのですが、同時にそれは、新しい服従の第一歩を踏み出すという、積極的な良い方向に人生を変える決断だということも覚えてほしい。
今年は30周年の年です。このような感謝と悔い改めの年となるようにと願っています。
皆さん、改めて新年おめでとうございます。
それでは、祈ります。
2010年01月01日(金)
新年明けましておめでとうございます。
私たちは、なぜ新年になると、「新年おめでとう」と言い交わすのか。私も若い頃、クリスチャンになりまして、クリスチャンがクリスマスを祝うことはよくわかるが、正月はなぜ祝うのか、もう一つよくわからないと思った時期があります。
新年がなぜ喜ばしいかとということを考えるとき、すぐ思い浮かぶことは、暦のこと。暦が替わって、新年を迎えるからですね。これは、旧暦の正月でも、私どものような、太陽暦に基づく場合でも同じです。ですから、海外にいて正月を迎える場合でも、年末の日の夜ともなると、カウントダウンをしまして、真夜中の1月1日12時を迎えると、爆竹を鳴らしたり、シャンペンの栓を抜いたりして、新年を祝うわけです。新年の喜びとは、基本的には、暦の上で新しい年を迎える喜びです。そして、人々はつつがなく、元気で一つ年をよけいに取ることができたことを喜び合ってお互いに「新年おめでとう」と言い交わすのだと思います。
私ども、キリスト教信仰の立場に立って、考えますならば、太陽や月、また大小の星を造られたのは、天地の造り主なる神でありますから、太陽や月の規則正しい運行による一年一年の暦というものも、また、神様の恵みによって私たちに与えられていると言えるわけです。
エレミヤ書31:35,36(旧1237)にはこういう御言葉があります。
「主はこう言われる。太陽を置いて昼の光とし、月と星の軌道を定めて夜の光とし、海をかき立て、波を騒がせる方、その御名は万軍の主。これらの定めが、私の前から退くことがあろうともと、主は言われる。イスラエルの子孫は永遠に絶えることなく、私の民である」。太陽、月、星の運行は、神様のご支配の御手の中で揺らぐことはありません。一年は、ほぼ毎年、365日、これは太陽系の規則正しい運行によります。春夏秋冬という四季は規則正しくめぐってきます。暦に関する神様の定めがひっくり返ることは先ずありません。万が一、それがひっくり返るようなことがあったとして、「わがイスラエルに対する愛は変わらない」と主は言われるのです。ですから、ここで、預言者エレミヤは、神がイスラエルの子孫に救いをお与えになるその真実さ、確かさを、太陽・月・星の運行の規則正しさになぞらえて、神の救いの確かさはそれ以上のものであるとの主の御言葉を伝えています。
ですから、私たちは、新年を迎える度に、新しい年をお与え下さったことを主に感謝し、そこにまた、新たに私たちの救いの確かさをも見る目を養いたいものです。ああ、主はもう一年生きることをおゆるし下さった。新年を迎えた今、私たちは、主の救いのご真実も同時に見ることができる。嬉しいことだ、主よ、感謝します。このように歌いたいもの。Cf.讃美歌411「新しき年は、主の愛(真実)を示す。恵みはたえせじ、年の終わるまで」。
普段の年でありますならば、もうここで、元旦礼拝説教は終わってもよいとさえ思うのですが、今年は2010年、伝道開始30周年という特別な年でありますので、もう一点だけ付け加えて新年のお勧めとさせていただきます。
私どもは今述べましたような理由により、新年には喜びをもって新年礼拝をささげるのですが、その時に、周囲の自然にも目を向けながら、礼拝をしたいと言うことです。ただこのような礼拝堂の中で閉じこもって礼拝をささげるのではなく、余り外の景色はよく見えないかも知れませんが、新年を迎えて喜んでいる庭の木々や草花、動物たちとも一緒になって新年礼拝をささげたいのです。
なぜそのようなことを言うかと申しますと、詩編の作者がそのようにしているからです。
Cf.詩編96:11,12、98:7,8
詩編96編は、ほぼ同じものが、歴代誌上16章にも出て来ます。歴代誌上16章(旧650)…昔、ダビデが神の箱をキルヤト・エアリムという町から新しく首都と定めたエルサレムに運び入れる場面です。ここで、この詩編がレビ人たちの奏でる琴と竪琴に合わせて高らかに歌われるのです。この時のために作られたのか、それまでに作られていたものをこのとき用いたのか、その辺のところはわかりませんが、歴代誌上16:31-33にも先程引用した詩編96:11,12と同じ文言が出て来ます。「海とそこに満ちるものよ、とどろけ。野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め。森の木々よ、喜び歌え、主を迎えて」。
神の箱が携えられてきたのは、キルヤト・エアリムという町からエルサレムに向かってです。キルヤト・エアリムは「森の町」という意味で、後にはエマオという名で呼ばれるようになった。聖地旅行を何度もされた私のある親しい牧師が書いておられるのですが、、このあたりは、森に覆われた斜面が遥か西、地中海の方まで続いている、ということです。そして、同牧師がこの個所についてが書いておられるのに、「キルヤト・エアリムの名にふさわしい緑豊かな森の木々の間に長い間安置されていた神の箱は、レビ人たちによって運び出され、東の方、エルサレムに上って行く。多くの楽器の伴奏で、人々は喜び歌う。その時、森の木々も、野とその中にあるもの、鹿も兎もすべての動物もこの賛美に唱和するように招かれている」。
本当に、これは、すばらしい情景ではないでしょうか。私たちは、自然と共に神を賛美するように造られているのです。 私たちが神を賛美するとき、周りの自然、森の木々も、草花も、野のすべてのものも、一緒に神をたたえ、喜び歌っているのです。Cf.イザヤ55:12も、「山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も手をたたく」 と言って、救われた喜びを山と丘、野の木々も私たちと共に主に向かって歌うのだと、イザヤは言うのです。
「手をたたく」…喜びをあらわす仕草。
新年は暦が変わる時、それは、とりわけ、冬が去って新しい春の到来を告げる時です。私たちは、この季節によく飾りますなんてんの赤い実のように、自然の新しい命の息吹を感じます。そのような、新しい自然の命に誘われるようにして、私たちは外に出かけたくなるものです。それで、多くの方は、3が日というと、思い切って海外に観光に出かけたり、スキーに出かけたりするのではないでしょうか。初日の出を見に行くのもそのひとつかも知れない。私ども夫婦は、段々と恒例のようになってきたのですが、元旦の午後には、犬を連れて洞峰公園あたりまで散歩に出かけます。そのようなときに、空高く伸びた木々や可憐な草花を見るときに、主に向かって「森の木々よ、共に喜び歌え」と呼びかけている詩編96編を思い起こします。或いは、「野の木々も、手をたたく」と預言しているイザヤ書55章の御言葉を思い起こします。そうして、私たちも共に、森の木々と共に手をたたいて喜び歌うのです。キーワードは「喜び歌え」と「手をたたく」です。(もっとも、聖書では、「森の木々」「野の木々」で、自然全体を代表させて言婁とも言えるので、私どもが目を留めるのは、もちろん、木々や草花に限らず、動物たちや虫たちでもよいのですが、…)。そういった神をたたえている自然に目をやるとき、私たちの心の内側から何か本当に本当に救いの喜びが深く、大きくわき上がってくるのを覚えます。これは、正月だけのことではないのですが、やはりお正月は、特別にこの喜びは大きいと思います。自然と共に造り主、救い主なる神を賛美するということ、これは本当にすばらしいことです。私たちの人生観世界観を変えてしまうものです。これは、実に新年の喜びではないでしょうか。
それでは、お祈り致します。
2009年12月27日(日)
クリスマス礼拝と新年礼拝に夾まれた、この12/27の主の日、年末礼拝としてふさわしい聖書の個所を選ばせて戴いたと思っています。クリスマスの物語の直後に、シメオンとアンナのお話しが出て来ますが、今日は、シメオンの信仰について、学びたいと思います。 このシメオンがどういう人物であったかについては、2:25b~26で、次のように記されています。「2:25b~26を読む」。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み聖霊が彼に留まっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」
→主の遣わし給うメシアに必ずお会いできると確信していた。そして、それは、彼の一生の中で最高の幸せであり、目標でさえあると考えていた。
キリストこそ自分が生涯において出会うことのできる最も大切なお方、自分にとって「第一の方」と考えていたのです。.25節a
では、この人が「正しい信仰のあつい人」であったと記されていますが、「キリストに会うまでは、決して死なない、というのは、正に彼の信仰であり、彼の確信でありました。
私たちも、ウエストミンスター小教理や大教理で、こういった「キリスト第一」、「神第一」の信仰を教えられております。ウエストミンスター大教理問答(今、聖書の学びと祈りの集いで少しずつで学んでいる教理問答ですが)の第一問では、「人間の主な最高の目的は何ですか」と問いまして、「人間の主な最高の目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことです」と答えています。神こそが私たちの人生で第一の方という信仰を見事に言い表していますね。これは、正に老シメオンの信仰であり、また、私たち改革派信徒の信仰でもあるのです。
この老シメオンのような「キリストを第一とする」信仰は、裏返して言えば、私たちは、キリストの他にこの世の中に絶対的に価値あるものをは持たない、ということです。もし、この世の中に絶対的に価値あるものを持ってしまったとするならば、キリストは段々と霞んでいってしまう。第二、第三の価値しか持たないそういう存在となって、その存在感を失い、やがては、消えてなくなってしまわれる。
この間の、クリスマス・キャンドルライトサービスの時にちょっとお話ししたのですが、私の身内同士の一時の大げんか。一方の兄の投げつけた一言がどうしても赦せない。絶対に赦せない。しかし、「絶対に赦せない」とがんばっている以上、罪の赦しを与えるために来られたイエス・キリストが入ってこられる余地がなくなってしまうわけです。そうしていつまでもいがみ合うこととなってしまいます。
とにかく、この世の中に、イエス・キリストの他に絶対的な価値を持つものを作ってしまってはなりません。
私たちは、地位や財産、若さや健康、学歴や職業、こういった神様のたまものを誇りに思うの余り、いつの間にかキリスト信仰よりももっと大事な、絶対的な価値を持つものとしてしまう。そうすると、あなたの人生からキリストを追い出してしまうこととなってしまう。聖書は「貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない」(コロサイ3:5)と言っています。神の良い賜物がいつしかあなたにとって偶像となってしまうのです。気をつけなければなりません。
若い兄弟たちは、今、みな、受験や就職を控えてがんばっておられます。私どもも応援したいと思います。主が必ず、主の栄光のために用いてくださいますから、望みの学校へ職場へ入れるように全力を尽くしてがんばってほしい。
けれども、「絶対この学校」、「絶対にこの職場」、と言った具合に、あなたがたにとって絶対的な価値がそこについてしまうと、肝心要のイエス様、即ち、すべてを良きへといつも導いてくださる主イエス・キリストのことが霞んでしまいます。そうならないためには、やはり、祈りつつ、礼拝しつつ、勉強に励むことが大切と思います。若いときの特権ですから、がんばってください。
シメオンに戻りましょう。
シメオンは、エルサレムの神殿に入って行ったときに、ここでも聖霊の導きを戴きまして、ちょうどタイミングよくお生まれになったばかりの幼子イエスに出会います。そして、幼子を腕に抱いて、神をたたえて言いました。「29,30節を読む」。
シメオンのこの言葉は、二つの意味を持っています。
1.主人の僕(奴隷)としてメシアの来臨を待ちながら、見張りの役を仰せつかっていたその働きから解かれる。今や、メシア・イエスを自分の目で見ることができたのだから。
2.この世での使命を終えて、安らかに、いつでも、世を去ることができる(息を引き取ることができる)。キリストとその救いを見たならば、もうあと何も思い残すことはない、という心境。いつ召されても、私はもう満足です、ということですね。
今、2009年の暮れ、この年末礼拝における私たち自身の心境はどのようなものでありましょうか。
シメオンは言いました。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(30節)。「あなたの救いを見た」…「救い主を見た」というのとは少し違う。シメオンは幼子イエスを腕に抱きながら、イエスを見つめています。しかし、単に、「かわいらしい口をしておられる」とか、「澄んだ眼をしておられるとか」そんなふうに幼子を見ているのではないのです。シメオンは、恐らく、この幼子を見つめながら、そこに「自分の民を罪から救う」と預言されていた主イエスの救いをはっきりと見ることができたのでありましょう。
「わたしはこの目であなたの救いを見た」…「この二つの目」(複数)。或る先生は、この時のシメオンの目と、パウロがエフェソ1:18で用いている「心の目」という言葉を結びつけて説教しておられます。Cf.エフェソ1:18(新353)。神の救いがどんなに大きく、広く、深く、素晴らしいものであるかを見させてくれる目をここでパウロは「心の目」と言っています。シメオンはそのような「心の目」をもって主キリストの救いを見たのであります。その大いなる救いを見たのであります。「自分の民を罪から救う」この世のどこにも見出すことのできない大いなる救いを見たのであります。
そして、それは、老シメオンが、「心の目」をもって見たのでありますから、単に視覚的に見た、と言うだけはなく、「救いを得た、自分のものとさせていただいた」とそのように解してもよろしいの打と思います。わたしはそう思います。
「この目であなたの救いを見た」のだから、あなたはこの僕を安らかに去らせて下さいます」とシメオンは、高らかに神をたたえて歌いました。今日、この歌を私たちも歌うことができるでしょうか。今年1年の私たちの歩み、悲喜こもごも、色々ありましたけれども、その中で一番大きな喜びは何だったでしょうか。やはり、イエス・キリストを私たちの救い主として知り、この方による罪の赦しの恵みを戴いたことではなかったでしょうか。この救いさえいただいておれば、後はすべて捨て去ったとしても、なおおつりが来ると言いましょうか。このキリストによる救いさえ戴いておれば、もう、2009年は実にすばらしい年であったと言えるのではないでしょうか。
すべて捨て去ってこの年を越すというのであれば、ではもう、2010年は迎えなくてもよいのか。2009年までが我らの人生であって、もう新しい年は迎えなくてよいのであろうか。そうではありません。シメオンも、「主よ、今こそお言葉どおり、この僕を去らせて下さいます」と言いながら、恐らくは今しばらく、主を証する生涯を生きたのではないか。ですから、私たちに対する主の御心も、私たちが主を第一とする新しい年を主の御恵みのうちに迎えることであると確信します。そのように主は、主は私たちひとりひとりに祝福された新年をご用意くださっているので。私たちは、来たるべきとし、キリストを第一とする生き方を教会に於、社会に於、積極的に展開してゆきたい。
そして、キリストを第一とする生き方について、キリストご自身がこう教えてくださっています。
「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりも先ず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31〜33)。
お祈りします。
、
2009年12月25日(金)
皆さん、こんばんは、クリスマスおめでとうございます。
聖書に従って、クリスマスを記念しお祝いしようと致しますときにいくつかのキーワードがあります。そのうちの一つは、「暗闇に輝く光」ではないかと思います。今日読まれた聖書の個所にも、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:4)という御言葉がありました。
この場合の「言」とか「命」とか、「光」というのは、いずれも、イエス・キリストのことを言っております。
なぜここで、イエス・キリストの事が「言」と言われているかといえば、このイエス・キリストというお方は、神とはどのようなお方かを正しく私たちに知らせるためにこの世に来られた方だからです。それで、イエス・キリストは「言」あるいは「神の言」と言われるのです。
そして、ヨハネは申します。この言の内には命があった。そして、その命は人間を照らす光である、と。
「言の内に命があった」…イエス・キリストの言には人を命へと導く力があると言っているのです。それで、イエス・キリストの御言葉のことを「命の言」ということもあります。
ところが、人間の言葉はどうでしょうか。新約聖書の中のヤコブの手紙は、私たち人間にとって舌を制御することが如何に困難であるかを述べた後で、こう言っています。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:8)と。これは、決して他人事ではなく、私ども自身の場合でも、私たちが不用意に発する一言、思いやりを欠く一言が、相手を傷つけ、人間関係を台無しにしてしまうようなことがよくあります。気をつけなければなりません。そのようなことの多いこの世にあって、命(と癒し)をもたらす神様の御言葉を取り次ぐことは教会の大切な使命であると、私たちは考えています。神様の御言葉には、確実に、傷ついた人を回復させ、命へと導く力があるからです。それで、私たちの教会の名前も「筑波みことば教会」と命名し、その名にふさわしい活動を展開して行きたいと思っているわけです。
私には、二人の年長の兄がおりました。今は、二人とも、残念なことに、それぞれ病気でなくなってしまったのですが、長男と次男で、私とは、4才から6才ほど年が離れておりました。それぞれに誠実な、弟思いの兄たちで私どもはいつもなかよく過ごしておりました。ところが、ある日、私がまだ小学校低学年の頃、二人の兄が大げんかをして、お互いに口をきかなくなってしまったのです。そして、そういう状況がそれ以後、何と1,2年のあいだ続いたのです。私どもは7人兄弟の大家族でしたが、上の兄二人がこういう状態でしたので、暗い、重苦しい空気が家族全体を支配したことを覚えています。何でこのようになったのか、私は知らないのですが、恐らくは、どちらかの兄の一言が他の兄にとって、絶対にゆるせない心の傷になってしまったのでしょう。
私が長じて、イエス・キリストによる罪の赦しの福音を聞いた時、直ちにこれを信じ受け入れることができた背後には、少年期にこういった兄たちの兄弟げんかをそばで見て、仲直りすることがどんなに大切かを自分なりに思い知らされていた、ということがあったのかも知れません。そんなふうに思っています。
皆さん、神様の御言葉を聞くことを通して私たちの人生に光が入ってきます。そして闇を照らし出す光のように、御言葉によって私たちの人生全体が明るく照らし出されるのです。神様の御言葉は、聖書において、「罪の赦しの福音」とも言われています。神様の御言葉を聞くということは、「赦されている」ということを知ることです。「神に赦されている」、「神に受け入れられている」、「神に愛されている」ということを知ることです。御言葉を聞くということはそういうことです。そのために、イエス様は、私たちのところに来てくださったのです。暗闇を照らし出す光としてこの世に来てくださったのです。
御言葉を聞いて、神に赦されていることを知った人、神に愛されていることを知った人は、不思議なことですが、今度は、人を赦すことができるようになる。人を愛することができるように変えられて行くのです。
来たるべき新年は、どうか、キリストの御言葉の光に照らされて、赦され、赦し合う明るい1年となることができるように祈りたいと思います。
それでは、お祈りします。
2009年12月23日(水)
初めまして。私は、つくば市東2丁目にある筑波みことば教会の宮ア彌男牧師と申します。今日は、クリスマスおめでとうございます。
今年の3月ころからでしたか、田中さんや谷貝さんと知り合うようになりまして、毎週水曜夜に私どもの方で行っている「聖書の学びと祈りの集い」には、度々おいでくださるようになりました。ホントに善いお交わりを戴いて感謝しております。それで、きょうは、クリスマスということで、この阿見のお宅でのクリスマス家庭集会にお招きいただいたような次第です。
きょう初めてお目にかかる方もあるのですが、、お会いできて嬉しく存じております。教会でもクリスマス礼拝だとか、色々のクリスマス集会が行われるのですが、少しここからは遠いので、教会まで足を運んでいただくのは、なかなか難しいのではないかと思います。けれども、こういった田中さんのお宅での家庭集会と言うことでありますならば、やはりうんと来易いですよね。誘われれば、「じゃ、寄せていただこうか」と言うことになります。
さて、イエス様がユダヤのベツレヘムという町でお生まれになったとき、ちょうど祭りの時でありましたので、町はごった返しており、宿という宿は、どこもかしこも一杯で、どこにも泊まるところはありませんでした。それで、マリアとヨセフは(マリアがイエス様を出産したばかりでしたので)困ったのですが、馬の寝泊まりする家畜小屋が空いていたので、そこで雨露を凌ぐ以外に方法はありませんでした。それで、赤ちゃんのイエス様は布にくるんで、その家畜小屋の飼い葉桶に寝かせたと言うことです(ルカ2:7)。
この「飼い葉桶」について、或る方はこんなふうに書いています。私どもが以前九州の熊本で伝道していたときに少しばかり存じ上げていた高木慶治さんという方です。カトリックの信徒の方で、祖先はキリシタンであったという方です。Cf.高木慶子シスターの兄。
「まぐさおけ(飼い葉桶のこと)という飼育用具は、農業の盛んな熊本に生まれ育った私たちには、実になじみ深いものです。以前、農家では田畑を耕すための牛、馬がしいくされていました。この農耕用の牛馬が飼われている所を馬屋と言い、その小屋は農家の門を入ってすぐ脇の右側か左側にありました。そこは大人も子供も気楽に立ち寄れる所でした。ここに馬が食べる干し草等の入ったまぐさおけがありました。…このように、だれもが気楽に立ち寄れる馬屋でキリストが清く貧しくお生まれになったということは、人類に差別なくどのような人々をも『救いにお招きになっておられる神様の愛と正義のあらわれではないでしょうか』」。
ですから、このような、教会とは違った家庭集会で、イエス様の教えを聞くと言うことは、ちょうど、まぐさ桶に寝かされている幼子イエスに会いに来るようなものかも知れません。教会の礼拝という、ともすれば、敷居が高く感じられるようなところで、イエス様に会うことは中々できないけれども、気軽に来れる、こういった家庭集会でイエス様に会うことができる、これも素晴らしいことではないか、すばらしいクリスマスの恵みではないかと思います。
でも、家庭集会と言っても、やはり、招かれないと行きづらいと言うことがあるかも知れません。それで、欧米の教会などでは、クリスマスの食事をするときなど、必ず、席を一つか二つ余分に作っておくということがあるそうです。
クリスマスには、家族や親戚が集まって食事をすることが習慣になっているようなのですが、家族のいない、一人住まいの人や、貧しくって知り合いが少なく、だれからもどこにも招かれなかった人たちがひょっとしたら、戸をたたくかも知れない。いつ突然思いがけないような人が来てもよいように、招かれた家族、親族の席の他に一つ二つ余分に席をつくっておく。これも「だれでもどうぞ」、というクリスマスの暖かい心のなせることかも知れません。すばらしいことです。
先程読んでいただいたところから、おわかりのように、最初のクリスマス・メッセージを受けたのは羊飼いたちでした。夜通し、羊たちの番をしながら野宿していた羊飼いたちでした。この人たちは、神を信じる敬虔な人々でしたが、その職業柄、中々神殿や会堂で礼拝などには出ることができない人たちでした。立派な服を着て、神殿や会堂に赴き、いつもで礼拝のできるような人たちではありませんでした。言うならば、普段ならば、この人たちのためには、神殿や会堂には席がなかったのです。そのような貧しい羊飼いたちに、最初のクリスマス・メッセージがと届けられたのです。
「恐れるな、私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。きょう、ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになった.この方こそ主メシアである」(ルカ2:10,11)。
色々な事情で、普段は、なかなか教会にまでは来れないような方たちをも、神様はお忘れにならないで、羊飼いたちのように、まぐさおけに寐ておられるイエス様にまみえ、礼拝することができるようにして下さったのです。
きょうは、クリスマス、だれでも拝めるまぐさ桶の傍らで、イエス様の誕生を喜び祝い、共に楽しい交わりの一時を過ごしましょう。
では、一言、お祈りしましょう。
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