メッセージ
2010年08月15日(日)
今日はTペトロ4:12〜17により「キリスト者としての苦しみ」と題して、御言葉を学びたい。
「キリスト者としての喜び」というようなタイトルならば、もっと礼拝にふさわしい、明るい希望に満ちた説教題になるのにと思われた方もあるかも知れません。確かに、私たちは、キリスト者として、大きな喜びをいただいて人生を生きているものであります。しかし、喜びというものは、初めから、もっと喜びで満たされたいと願っても、自分で思ったようにすぐさま喜びにあふれるようになるとは限りません。そういう意味では、幸福の「青い鳥」を求めて旅立ったチルチルとミチルの兄妹が旅先では、幸福を見つけることが出来ず、自分の家の鳥かごの中にいるのを見つけたメーテルリンクの童話のようなものなのかも知れません。中々求めてすぐに与えられるものではない。むしろ、キリスト者としてのホントの喜びを得たいのであれば、私たちはキリスト者として受ける苦しみ(苦難)の問題を避けて通るわけには行かない。苦しみや苦難の問題を無視して喜びを得ようとしても、決してホントの喜びには到達できないことを私たちはよくわきまえるべきです。私たちがずっと学んで来ましたTペトロの手紙の主題も、苦しみや試練を通って得ることのできるキリスト者としての大いなる喜びについて語っているのです。
ところで、今日は、8月15日の主の日、安息日であるが、同時に、第65回目の敗戦記念日でもあります。戦後65年というのは、結構多くの年月が経っているわけです。
一般的に、戦後20年経った1965年頃から、高度経済成長期に入ったとされております。しかし、その後30年経ってバブルがはじけ、高度経済成長が止まり、1995年頃から、また、日本は、おとなりの韓国や中国が色々の意味でどんどんと国力を増していったのに比べ、段々と精神的にはつらつとしたものを失って行くわけです。
高度成長期に至るまでの戦後20年間、(敗戦の年から昭和40年頃までですが)私たちはなお戦争の傷跡の各地に残る中で、復興のために全力を注いでいた。戦争体験はまだ風化しないで、私たちの心の中に残っておりました。私たちは平和のありがたさを噛みしめつつ、一生懸命に生きていた。その時、私たちは、貧しい中にもたくましく生きる喜びと力を皆、多かれ、少なかれ、持っていたのではないか。
ところが、高度経済成長期を経て、日本は経済大国となり、巷にモノはあふれるようになった。同時に、戦争の記憶は、一部の人たちの場合を除いて、薄れていったのである。そのような中で、じゃ、日本人は生きる喜びを噛みしめるようになっていたのかと言えば、案外そうではなく、むしろ、物質的豊かさとは裏腹に精神的豊かさを失い、国としての力も弱くなっていったのであります。ま、今度のワールドカップ南アフリカでは、少しがんばりましたがね。
これがごくごく大まかに言って、私たちの65年の戦後史だったのではないかと思います。特に、高度経済成長と戦争体験の風化と言ったことを軸にわたしなりに考えて見たわけです。
こういう意味では、わたしは、今年今日の8.15に向けて、NHKテレビが毎晩のように、とりわけ、戦争を知らないで育った若い世代に、戦争の現実、悲惨さ、理不尽さを敢えて知らせようとする特別番組を放送したことは、有意義であったと思います。少しでも戦争体験の風化を防ぐ効果があったのではないかと思い、よかったと思っています。
広島・長崎の原爆にしても被爆者の直接的体験の証言を聞くことができるのは、この方たちの年令を考えると、時間的猶予はもうごくわずかと言うことがあります。彼らにお願いして語り継いで貰わなければなりません。
戦争体験の風化が日本国民に生きるための本当の喜びと迫力を失わせつつあると言うことを申し上げ的たのでありますが、キリスト者としての苦しみとそれに続く喜びと言ったテーマについても同じような事を考えなければならないと思うのです。キリスト者としての喜びを本当に味わい知るためには、キリスト者としての苦しみをもしっかりと知らなければならない、わきまえておくことが必要だと言うことです。
しかし、ペトロが本当のクリスチャンとしての喜びにつながる苦しみと言っておりますのは、苦しみと申しましても、キリスト者として、キリストの名のために受ける苦しみのことです。もう一つ、自分自身の罪が原因で受ける苦しみもありますね。Cf.2:20。今日のところでもCf.4:15。
ここの所は、皆さん自分には関係のないような思いで読まれるかも知れません。クリスチャンである自分が人殺しなどするだろうか。クリスチャンである自分が泥棒などするだろうか。と言った具合です。でも、私たちはやはり、こういった個所を自分の問題として読まなければならないと思いますね。
人殺しでも、窃盗行為でも、十戒で禁止されていることです。しかし、ハイデルベルク信仰問答では、第六戒「殺してはならない」が教えていることとして、「わたしの隣人を…そしったり(他人のことを悪く言う)、憎んだり、侮辱したり、…あらゆる復讐心を捨て去ること」等も含めています(105問答)。私たちクリスチャンの日常生活の中でこういうことは決してないとは言えませんね。
盗みの罪にしても「あらゆる貪欲や、神の賜物の不必要な浪費も禁じています」(ハイデルベルク110 )。こういったことも私たちと決して無関係ではありません。
こういった自分自身の罪が原因で苦しむことがある。これについては、避けるようにすべきである。こう言ったことがないようにしたい、とペトロは申します。
けれども、ペトロは、16節で申します。「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。
では、一体キリスト者として苦しみを受けるというのは、どういうことなのでしょうか。私どもの毎日の生活に照らして考えるならどういうことなのでしょうか。
「キリスト者」…Cf.使徒11:26(新236)。自分たちの方からそう唱えるようになったのではなく、周囲の者がこう呼ぶようになった。でも、段々と、一般的にキリスト信徒のことを自他共にキリスト者と呼ぶようになったようです。
欧米や戦後の日本等では、「キリスト者」という呼び名は尊敬の念をもって用いられる場合もあるが、歴史全体を見渡せば、キリスト者であるがゆえに迫害を受けたり、さまざまな苦しみに遭うことは決してまれなことではなかったわけである。初代教会の場合でも、特に64AD以降、ネロ皇帝による迫害が起こって、ペトロやパウロも殉教の死を遂げたと言い伝えられています。
しかし、そのような厳しい状況の中でもペトロは「キリスト者として苦しみを受けることを恥じてはなりません」と申します。…頭(こうべ)を高く挙げて、神をあがめなさい、と申します。
キリストの名のために辱めを受ける、一つの事例として使徒5:40〜41(新223)を見てみよう。こういうことは今日の社会においても十分に起こり得ることである。なぜならば、この世の人たちの生き方や考え方とキリスト者の考え方、生き方が違ったところがあってそれが対立関係に発展する場合があるのです。キリスト者がキリストに従って生きようとする場合に、キリストの名のために辱めを受けることがあるのです。戦時中ですと、天皇よりもキリストの方が上だ等と言うと、牢屋にぶち込まれたり、或いは地域共同体の中で、浮き上がってしまって、村八分に合うようになったりすることが起こるのです。或いは、もっと個人的な人間関係、家族関係、親戚付き合いの中でも同じようなこと起こります。キリストの名にために辱めを受けることが起こるのです。
しかし使徒たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び…」と聖書は言っている。なぜ、辱めを受けると言うようなことが喜びとなるのか。ある意味では、不思議なことです。
辱めを受ける…ここでは、具体的には、むち打たれることや、今後一切、イエスの名によって語ってはならないと厳しく言い渡されると言うようなこと。これがなぜ喜びとなるのか。なぜ、使徒たちは、イエスのために辱めを受けることを喜んだのか。
それは、彼らが受けた苦しみはキリストがその御生涯において、特に十字架の死においてお受けになった苦しみと同じような苦しみであることを知ることができたからです。
ペトロはこのことを、キリストの苦しみに与ると言っています。Cf.Tペトロ4:13。ペトロは「キリストの苦しみに与れば与る程、それは嬉しいことなのだ。喜ばしいことなのだ。喜びなさい」とここで、言っております。なぜならば、キリストの苦しみの与ることは必ず、キリストの栄光に与ることにつながるからだと言うのであります。
このようにして、苦しみが喜びへと変えられるのです。私どもにとって、苦しみは苦しみ以外の何ものでもなかった。そのように思っておりました。(確かに、すべての苦しみが、キリストとしての苦しみだろうと、自分の罪のために被った苦しみであろうと、辛く、悲しいことはそのとおりです)。しかし、キリストの苦しみに与っていることを知ったときに、苦しみは喜びへと変えられるのです。
このことを私たちもキリスト者としてそれぞれの人生において、これまでも経験して来られたかも知れないが、これからも経験させていただきたいと思います。
そのためには、キリストのために苦しむことがあってもそれを避けないことです。キリストのために苦しむことがあってもそれを避けないで下さい。必ずやそれは大いなる、本当の喜びにつながって行きます。
それでは、お祈り致します。
2010年08月08日(日)
今日は、Tペトロ4:7〜11によって、「祈りと希望」と題して、みことばを共に学びたいと思います。
ペトロは、2:11〜4:7の所で、異教社会の只中にあって、キリスト者として生きている教会員に、クリスチャン生活の原理を教え、また、信仰上の戦いや苦難に遭遇したときの心得などを、書き記して、励ましと導きを与えてきました。
今日の所は、この教えと励ましの部分の締め括りとして読むことができると思います。
今日の週報の裏のページにわたしも、〔筑波みことば教会:教会員心得〕を記し、これからしばらく、親しんでいただくこととなりますが、今日学びますTペトロ4:7〜11も、短い個所ですが、内容的には、「終わりの日にさいしてのキリスト者の心得」とでも言うべきものになっています。しかし、その霊的な力は素晴らしいものがありますので、今日はしっかりとこの個所において教えられているみことばを学び実践したいものです。
先ず、「万物の終わりが迫っています」という出だしの言葉。
これは、ペトロの手紙全体に言えることですが、ペトロは、週が近い、という強い終末意識をもって、その手紙を書いています。復活・昇天された主イエス・キリストが天より再度下ってこられて、生きている者と死んだ者を正しく裁き、救いを完成して下さる終わりの日を、今か今かと待ち望む生きた終末信仰に強く彩られています。「万物の終わりが迫っています」というこの冒頭の聖句においてもそのような終末信仰が反映されています。このような終末信仰は、イエス・キリストご自身の教えでもあり、初代教会全体の生きた信仰でもあった。
この点について、ある注解者は、このように言っています。「このようなすぐにでも起こりそうな、神の完全な最終的な支配の実現への期待は、新約聖書の教え全体を特徴付けるもので、これを理解しないで、新約聖書の教える徹底した高い倫理的要求を理解することは不可能であろう」と。
このような生きた終末信仰に加えて、もう一つの特殊事情として、この手紙の読者が迫害下にあったということもあったでしょう。さらには、ペトロ自身、もう召される日が近いという年齢的なこともあったでしょう。ペトロは強い切迫感に迫られて、今日のこの締め括りの部分を書いていると言うことができます。
私たちも今日、この21世紀の初頭に生きておりまして、この世的には、なかなか希望の見えてこない、不透明な時代に生きている。よく言われることですが、100年に一度の危機を迎えている。これは、経済面でのことですが、社会全般に亘って、既成の価値が問い直され、人生や世界に関する世間一般の人々の考え方も激しく変化しつつあります。或いは、気象や環境問題でも、この夏の暑さは日本でも例年とは違うもので、熱中症による死者も殊の外が出ました。世界的にも、ロシアにおける極端な暑さにより多くの人が犠牲になった。さらには、中国や最近のパキスタンにおける大水害のことが報道されています。反対に、南米では、極端な寒さによる死者が大勢出ているとも聞きます。この世界がいつまで続くのか、不安に駆られます。
もっと、個人的教会的に申しましても、私たちは、今、牧師の引退、交替と言った局面にさしかかっている。これから後任牧師のことをことを考えることになりますので、やはり不安があります。少子・高齢化現象は、教会も含めて社会の各方面に様々な不安や課題を与えつつありますが、これと言った、回答は出て来ておりません。
このように、ペトロが心に抱いていた「終末が近い」という切迫感は、私たち、この時代を生きているものにも共感できるものがあるのではないか。そんな風に考え、主に祈りつつ、日々を過ごしつつある今日この頃です。
「万物の終わりが迫っています」…そのような思いに駆られつつペトロは勧めます。「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。
ここでの、中心点、強調点は、一番最後に出て来ます「よく祈りなさい」ということです。「思慮深くあれ、身を慎め、祈りに向かって」とも訳せる文章構造です。新改訳聖書では、「祈りのために心を整え、身を慎みなさい」となっています。祈りへと突入し、祈りに結晶する思慮深さ(節度)、そして、慎み(自制)が求められています。
この「思慮深さ」…「(感情的になって)浮かれ騒ぐ」の反対で、ものごとを全体的に捉える冷静な判断がここで求められている事です。万物の終わりに臨んで、言いふらされる様々な迷信やでまを退け、言われのない中傷に心惑わされることなく、信仰による冷静で、澄み切った心を保つように、ということ。
「身を慎しむ」…元来は、飲酒を慎むことを指す。ペトロはこの言葉で、何事にも自制することを求めている、と言えます。
そして、そのような「思慮深さ」と自制心の中で、私たちは祈りへと導かれます。よく祈りなさい。
この場合の祈りは、かならずしも、個人の祈りだけではありません。この個所全体の教えが優れて教会的な勧めになっていますから、「よく祈りなさい」とペトロが勧める場合も、キリストにある命を共に分かち合う群れの祈り、すなわち、教会の祈りを特に指していると思われます。礼拝その他の集会で私たちが共に祈り合う教会の祈りの第一義的重要性を強調しているように思われます。もっとも、このような教会的な祈りは、個人個人の祈りに支えられて真実なものとなるのですが…。
なぜ、このようなときに祈りが必要なのか。「…祈祷とは、神のご意志に一致することのために、…」(ウ小教理98)。祈りは、個人のものであれ、教会の祈りであり、或いは家庭礼拝の祈りであれ、すべて、その目的は「神のご意志に一致することのため」であります。それで、ペトロは祈りが第一番に重要と言っているのです。
そうしますと、11節後半との関連が出て来ますね。「これは、すべての事において、イエス・キリストを通して神が栄光をお受けになるためです。」(11)。「神の栄光を求める」ということです。
ですから冒頭の「よく祈りなさい」と言う勧め、そして締め括りの部分にある頌栄は、どちらも、神の栄光を願い求める祈りでありますが、この両者の間に、8-11節の色々の大切な勧めが語られている。この個所は、こういう構図になっているということが分かります。
1.何よりもまず心を込めて愛し合いなさい。(愛は多くの罪を覆うからです)。(8)
2.不平を言わずにもてなし合いなさい。(9)
3.賜物を生かして互いに仕え合いなさい。(10)
@語る者(11a)…は神の言を語るにふさわしく語りなさい。
A奉仕をする者(11b)…は神がお与えになった力に応じて奉仕し なさい。
(1.について。「愛は多くの罪を覆うからです」…当時の教会で正に箴言のように言い習わされていた。Cf.箴言10:12「憎しみは諍いを引き起こす。愛は多くの罪を覆う」)。愛は、人が人に対して行った多くの過ちを見過ごし、争いを継続させないようにする。箴言10:12では、こういう意味で用いられているとのこと。お互いに対する沢山の罪や過ちがあったとしても「あなたを心より受け入れます」という愛の一言があればすべて解決と言うこと。それほどに愛は罪を覆う不思議な力を持っているのである。
2.については、月報8月号「今月のことば」を参照)
これらすべては神の栄光を願い求める祈りから出てくるものである。心を込めて愛し合う愛も、不平を持たずにもてなし合うことも、(語るにせよ、奉仕するにせよ)、賜物を生かして仕え合うことも、その力の源泉は祈りである。
よく祈りなさい…これが第一。この時、愛、もてなし合う、賜物を生かして用いる、等が実践されるようになり、教会は生き生きとしてくる。ここに希望がある。
教会における祈り…何と言っても礼拝を守ることである。そして、祈祷会等他の諸集会に出席することである。これら礼拝、諸集会はは、私たちに十字架の希望を仰ぎ見させる。礼拝と十字架。ここに教会の力と希望があります。
お祈りしましょう。
2010年08月01日(日)
今日は4:1〜6により、(キリストと)「同じ心構えで」と題して,御言葉を学びたい。
「キリストと同じ心構えで」…どういう心構えかと言えば、キリストが肉に苦しみをお受けになった、のと同じ心構え,ということです。お受けになった…すでに、一回限り、お受けになった御苦しみ。ですから、十字架の死も含めて,という風に理解してよろしいでしょう。しかし、それだけではなく、例えば、主イエスが,血が滴るような大粒の汗を流して、祈られた、かのゲッセマネの祈りも,主の肉における御苦しみの一つでありましょう。
私たちがこのようなキリストの御苦しみ,すなわち、人類の罪をあがなうための御苦しみをそのまま同じように苦しむことはできません。これは、神の御子イエス・キリストにだけ神が託された使命でありまして、私たちはただただ、そのようなキリストの肉における御苦しみによる救いに与らせていただくだけでございます。
けれども、私たちは、ここでペトロが言っておりますように、「同じ心構えで」(武装して生きる)ように召されているのです。
「心構え」…心の思い、考えという意味の言葉。口語訳では、「覚悟」と訳されている。「あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。」キリストと同じ覚悟で心の武装をしなさい、というわけです。
この覚悟は、キリストの覚悟であると同時に、神の覚悟でもあります。キリストは父なる神より命じられて、覚悟をもって十字架に向かわれました。正に、かのゲッセマネの祈りの中で、その覚悟を固められたのです。しかし、神様はその遙か以前にキリストの民を選び、キリストの十字架によってきよい民、全世界の祝福の基となるようなご自身の民を鍛え上げようと心に決めておられた。覚悟を固めておられた。Cf.創世記18:16〜19。
「わたしが行おうとしていること」(17)…主の救いの御業、主のあがないの御業。救いの歴史全体を視野に入れて考えますならば、イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げようとしておられる主の救いの御業を指しています。それをアブラハムに隠す必要があろうか、自問自答しておられるのです。それで、主は隠しておく必要はないとお考えになりまして、アブラハムと対話されるのです。
今日私どもが学ぼうとしているTペトロ4:1でのペトロの勧めも全く同じ趣旨です。キリストと同じ苦しみを私たち信者が経験できるわけではないが、それでも、肉に苦しみを受けることにおいて、キリストと心構えにおいて一つとなる、一つ心構えとなる事が求められている。これが今日の個所でペトロが私たちに命じている事です。
神様は救いのご計画を立てられた。それを、主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの内に、実現しようと決意されました。これが神様の覚悟です。心構えです。
この救いのご計画を実現するために神様は忠実なパートナーをお求めになった。このパートナーこそが私たち、キリストの教会であります。神様は、救いのご計画を、決して絵に描いた餅に留めたくなかったのです。どうしても実現したかったのです。
それで、アブラハムを選び、モーセを選び、ダビデを選び、そして、イエス・キリストとその教会をお選びになりました。このイエス・キリストの御苦しみ、その十字架と復活によって、救いのご計画を実現しようとしておられるのです。このように、主は真実なパートナーを今求めてられることを、私たちは今日はっきりと感謝の内に心構えに刻みつけたいと思います。そして、その期待に、一人一人応えるものとなりたいと思うのです。
それでは、そのような神の救いの実現のための忠実なパートナーとなる道はどこにあるのでしょうか。Cf.1b-2。
「罪との関わりを断つ」。キリストと同じ心構えで武装するためには、キリストの苦しみと全くそのまま同じ苦しみを経験することに私たち信者は耐え得ないのですが、それでも、キリストと同じ心構えで武装すると言うことが求められている。私たちもキリスト信仰ゆえに肉において苦しみを受けることがあるのです。例えば、理由もなく、侮辱等を受けることがある(3:9等参照)。そのような時、ペトロは申します。「肉に苦しみを受けたものは、罪との関わりを断ったものなのです。」私たちは、キリストのために苦しみつつ、同時に罪を犯すことはできない。義のために苦しむ事は、御心に適うことだからです(2:19)。
罪との関わりを断つとは、「人間の欲望にではなく、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるため」(2)である。クリスチャンとしての新しい生き方が何を第一義的目標としているかといえば、それは神の御心を求めて生きる事である。かつては 周囲の人々と同じように「好色、情欲、泥酔、酒宴(英訳:ドリンキングパーティ)、暴飲、偶像礼拝等にふけっていた」のですが、(もうそれで十分)そのような生き方とは訣別したのです。
しかし、だからと行って、私たちは、世捨て人のように、彼らと何の関わりも交際も持たないというのではない。私たちは、彼らに福音を伝えるという、伝道の使命を持っている。イエス・キリストですら、ご復活のあと、黄泉(死者の世界)に降って、伝道された(3:19、4:6)。彼らは,来たるべき日には、、彼らの乱行について、神の御前で申し開きをせねばならない。その日に備えて私たちも彼らに光の中を歩むように勧めをしなければならない(Cf.2:9)。彼らは今でこそ、その乱行のゆえに、終わりの日に裁かれねばならない者たちであるが、「肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになる」(4:6)ことを願いつつ、私たちは彼らにも心からの福音的情熱をもってキリスト信仰を勧めることができるのである。
最後に、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」…御言葉によって武装、神の御心によって戦う。自分の力で戦うのではない。
私たちはキリストと同じ心構えで残りの生涯を生きるべく召されています。それは、神のパートナーとして、実に光栄な生涯であります。しかし、同時に、私たちの人生には様々な戦いもある。そのような戦いを戦って行くに当たって、無防備で、自分の力だけに依り頼んで戦うのではありません。神様の御言葉によって武装して戦うのです(エフェソ6:10〜18)。それは、何よりも力強い武器です。
私たちはこのような武具を身にまとい、キリストの心構えで主と共に戦い行きたいものです。
それでは、お祈り致します。
2010年07月25日(日)
今日は先週と同じ「キリストを主とあがめよ」という主題で御言葉を学びたい。2回シリーズの第2回目です。
先週は、特に「祝福を受け継ぐために私たちは召された」(3:9)との関連で、キリストを見上げることを教えられた。キリストは私たちの私たちの人生全体を「のろい」から「祝福」へと変えてくださった。罪のために神の怒りとのろいのもとにあった私たち一人一人の人生をそこから救いだし、祝福された人生(神共にいます人生)へと変えてくださった。イエス・キリストこそ、私たちにとって祝福の源であります。一切のよきことはキリストから来るのであります。
ですから、私どもがこの世にあってさまざまな辛いこと、苦しいことを経験しますときに、キリストを見上げ、この方からの助けを期待してよろしいわけでありますし、また、期待することができるわけであります。このことについて、わたしは先週の説教の締め括りの部分において一つの聖句を引用して終わろうと考えておりながら、できませんでしたので、今日の説教の冒頭でこの聖句をご紹介しておきたいと思います。詩編34:16(旧約865)「主は従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(ヘブライ語からの日本語訳)。→Tペトロ3:12(新432)「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」(ギリシャ語訳を日本語訳したもの)。前者の方が強く心に響くでしょう。
さて、それで、今日の所でありますが、「キリストを主とあがめよ」の第二回目。もう少し、言葉を加えて申しますならば、「復活の主を仰ぎ見よ」ということであります。Tペトロ3:18〜22によってお勧めします。
この中の19〜20節は、新約聖書の中でも特に解釈の難しい所とされているのですが、わたしとしては、復活の主イエス・キリストが、マタイ28:18において、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言っておられるように、死者の世界においても、その支配の御手を行き届かせておられる、との素朴な信仰をもって読みたいと願っています。(参考にしたのは、:石丸新先生、加藤常昭先生、キステマーカー、ダヴィーズ等の注解書、説教集)
主は、死んで復活されてから、どのように行動されたのでしょうか。19節及び22節。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所へ<行って>宣教されました」(19)…。「キリストは天に<上って>神の右におられます」(22)。
<行って><上って>…ポレウオマイ…もともと「浅瀬」という意味の言葉からきている。歩いて渡れる所がある場合、「進んで行く」「行く」「上る」 という意味で用いられる。Cf.「途方に暮れる」(ガラテヤ書4:20)… 行くべき道がわからなくなってしまった、八方ふさがり。
復活のキリストの場合、ちょうどそれとは正反対です。陰府に下って行くべき道も、天に上って行くべき道も、開かれたのである。死者の世界に行き、そこからさらに天に向かわれた。主イエスの復活により、陰府の国を突き抜けて、天に至る道を開かれたのである。(ある説教者の言葉で言えば、「まるでブルドーザーのように」道を造り、道を開いてくださったのです。
復活のキリストを仰ぎ見るときに、私たちはそこに人間には及びもつかないほど大きないのちの力を見ることができます。それでこそ主イエス・キリストは死者の中から復活することができたのです。
主が復活されたときに神の大きな力が働いたと、エフェソ1:19〜21は証ししています。想像もできないほどの大きな力が働いた。それは、本当に、復活のキリストの名を「今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上におく」程のものでありました。(21)。
ですから、このように神様の大いなる力が働いて死者の中から復活されたキリストが、復活後に、死者の世界に降って行き、宣教されたとしても、何の不思議もありません。
ここではどういう人々に宣教されたかと伝えられているかと言えば、「ノアの時代に箱船が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」に対して宣教されたとされています。死者の世界へ降っていって何をなさったのかといえば、生きている間には、神様の言うことを聞かなかった人々に、もう一度福音を聞く機会をお与えになっているのです。復活のキリスト(=霊において生かされたキリスト=神の御心によって生かされたキリスト)としては、当然ではないかとわたしには思われます。エマオ途上に弟子たちと会われた。しかし、食事を共にされた後、そのみ姿は見えなくなったということであります。或いは、最初のイースターの夕べ、ユダヤ人を恐れて戸を締めていた弟子たちの所に入っていって「平和があるように」と祝福された。どこにでも福音の香をまき散らし、陰府の世界をも突き抜けて天に上られる。それが新約聖書の描き出す復活の主イエス・キリストであります。
このTペトロ3:19〜20、4:6は解釈の難しい個所であり、多様な解釈がなされてきた個所ですが、今この説教で一々ご紹介することはできません。ただ、石丸新先生は「神の審きを知っているにもかかわらず、この神に従おうとしなかった者たちの所まで降って行って、救いを宣教したキリストのあふれるばかりの愛と恵みの深さを読み取るべき」(『生ける希望』119頁)と言っておられることだけご紹介しておきます。
私たち改革派教会も含めて、プロテスタントの教会では、死者のためのとりなしの祈りなどは致しません。救いは神からいただくものであると信じているからです。ですから、信仰を持たないでなくなった場合、後は神様に委ねる以外にないのです。あくまでも、この世に生きている間に信仰告白をした者が教会の会員であります。このことに何の疑問もありません。
そして、ペトロもここで、この世にある間にキリストを信じなくても、死んでからでも、復活の主イエス・キリストから福音を聞く機会があるから、なくなる前に何とか信仰を持って貰おうと、そんな努力は必要ないなどと言っているのではありません。私たちの伝道の姿勢に甘えを赦そうとしているわけでもありません。救いは洗礼によってもたらされることを、21以下で殊の外強調していることからも、ペトロの意図は明らかです。洗礼こそが主が定められた恵みの手段として私どもがいつも重んじるべき救いの道です。20b〜21a節。
しかし、今日、私たちがペトロの証言から学びますことは、復活の主がおられる所、そこでは、常に私たちには希望があると言うことです。決して絶望に打ちひしがれることはないと言うことです。
主は復活後、死者の世界にまで降って行って、そこで、宣教されました。主がそこに行かれたとき、希望の福音は語られたのです。み名が救われたとは書かれていませんが、福音は語られた。光がともされたのです。すべての霊的勢力は今や復活のキリストの支配のもとにあるのです(22)。復活のキリストの御名は「今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上」に置かれています。復活のキリストのおられるところ、そこでは、どんなところでも私たちは光と希望と命の中で安らぐことができるのです。
一生懸命、伝道した。何とか、クリスチャンになってほしいと思って伝道した。しかし、病気がどんどん進んで信仰告白することなくなくなった。本当に悲しいことです。それでも私たちは、復活の主を仰ぎ見ますときに、絶望することなく、望みを持って生きることができるのです。もう天国で再会できる希望が一切失われたと行って絶望するのではなく、信者としてなくなった場合ほど確信は持てなくてもなお、復活のキリストにあっては、望みをもって生きることができます。救いは、究極的には、私たちが決めることではなく、神様がお決めになること、復活の主がお決めになることだからです。本当に心より神におゆだねすることができるのです。
今日、私たちは復活されたキリストが死者の世界にまで降っていって、そこで福音を宣べ伝えられたとの驚くべきペトロのメッセージに触れることができました。主は見えるもの見えざるもの一切に対して勝利されました。感謝であります。この主を仰ぎ見て生きるようにしましょう。復活の主のこの御言葉をもって互いに慰め合いましょう。
それでは、お祈り致します。
2010年07月18日(日)
今日は2回シリーズの第1回目として、3:8〜17から「キリストを主とあがめよ」と題して学びたい。
「終わりに」…これまで、ペトロは、異教社会に生きるクリスチャン生活の指針を、市民として、召使いとして、妻として、夫としての側面から述べてきたのですが、今日学ぶ3:8ffの箇所は、その締め括りとも言うべき個所。 まず8-9節を読む。
ここに「祝福」という言葉が二度出て来ます。この言葉に先ず注目していただきたい。
祝福する(ユーロゲオー)…文字通りには、「よく言う」というギリシャ語→聖書では、「祝福する」という意味で用いられる事が多い。単に言葉で祝福するというだけではなく、それ以上の重みを持つ言葉。
例えば、旧約聖書の例…創世1:28「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従えよ」。神が人類を祝福された結果、人類は地に広がり満ちて、神の被造物の管理者となった。
或いは、創世12:1〜3「…私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。アブラハムに対する神の祝福によって、祝福の連鎖が生まれるというのである。このように、祝福というのは、単なる言葉の問題ではなく、祝福された者に実際に霊的・物質的益をもたらした。
聖書においては、神が祝福する、神の祝福がすべての祝福の根元であるが、アブラハム、イサク、ヤコブ等族長たちも祝福する。アロンとその子ら(祭司)も民を祝福する。Cf.民6章22〜27「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。…」。イエス様も幼子を祝福されました。また、5つのパンと2匹の魚を祝福して、5000
人の群衆を養われました。また、終わりの審判の日に「父に祝福された人たち」と言って義人を祝福されます。
今日の聖書個所では、ペトロが、「かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(9)と言って、すべてのクリスチャンがキリストから祝福を受け、祝福を祈るように召されている、と言う。
もっとも、父なる神やイエス・キリスト、或いは聖霊なる神以外の私たちが祝福するとか祝福を祈ると言う場合、先ず私たち自身が神から祝福をいただいているということが前提であることは言うまでもない。それで、ペトロもここで「かえって祝福を祈りなさい」と言ったすぐ後で、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と言っているのです。
“私も主の恵みをいただいて罪を赦されたものです。あなたも同じように、主の恵みをいただいて、罪の赦しを得られれますように”。このように、神の祝福に与ったものとして、神の祝福を祈るのです。私たちが受けた神の祝福とは、私たちの罪を赦すために、十字架の犠牲となられたイエス・キリストによる罪の赦しの祝福です。ですから私たちが祝福を祈るとき、それは、罪の赦しを祈るのです。私たちの祈る祝福の祈りには神がその方の罪を赦し給う赦しの愛が込められているのです。
9節の前半には、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」とあります。私どもが、この世にあって、悪意ある仕打ちを受けたり、あからさまな侮辱を受けたりしますと、何だか、すぐに本能的に、バランス感覚のようなものが働いて仕返しをしなくてはならないような思いになると思います。悪に対しては、悪をもって報いる、侮辱された場合には、どうやって侮辱してやろうか、言わば、反射的にそんな風に考えてしまうであります。なかなか赦すことはできないものです。ましてや、祝福を祈ることはできないものです。
しかし、もし私たちが意地悪されたときに、こちらもその方のために祈るのではなく、意地悪をもって仕返しをしたり、或いはあからさまな侮辱を受けたときに、侮辱をもって報いるようなことをした場合には、職場でありましても、家庭でありましても、教会でありましても、波紋が広がりますし、互いに傷ついたりして、その結果は長く尾を引くことが多いのです。本当に、これは、人間関係の厄介な面であります。
このような現実を考えますときに、ペトロの勧告はやはり私たちが真剣に耳を傾けるべきものです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」
このような、悪に報いるに悪をもってしない、侮辱されても侮辱をもって仕返しをしない、かえって祝福を祈る、このような生き方の一つの例を、ペトロは詩編34:13〜17に見ています。この詩編の個所が次の10〜12節に引用されている。ここでは、自分の舌、唇に関わる罪に陥らないよう、注意すべき事が語られていると同時に悪から遠ざかり、善を行い、平和を願ってこれを追い求める、といった、積極的に平和な生活を求めて行く生き方の姿勢が勧められています。→非常に魅力的な詩編となっている。
しかし、そのように、善を行い、平和を願ってこれを追い求めるという風に心がけ、努力しておりましても、必ずそのような平和な生活が実現できるとは限りません。この世にあっては思わぬ事が起こってくるものです。14節で言われておりますように「義のために苦しみを受ける」と言うようなことも現実には起こってくるのです。ペトロは、この第一の手紙で何度もこのことに言及しています。そして、ペトロは、イエスさまと同様、その時、あなたは幸いだと言っています。→14節。「人々を恐れたり、心を乱したりしてはなりません」。
ペトロが言っていることは正しい。こういう場合、自らの正しい行いや主張を安易に曲げたりしてしまいますと、ますます収集がつかなくなってしまいます。しかし、自分が正しいことをしているのに、激しく非難されたり、恫喝されたりしますと、耐えがたい思いになることも確かです。私たちはしばしばこのようなときに、心弱くなるものです。「人々を恐れたり、心を乱したりしがちなものです。」
そのようなとき、どうすればよいのか。ペトロは申します。
「心の中でキリストを主とあがめなさい」。解決は、やはり、キリストにあるのです。
Cf.9節後半「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。祝福を受け継ぐようにとあなたを召して下さったのは誰ですか。イエス・キリストがあなたを召して下さったのではありませんか。その十字架の死と復活を通して、あなたの人生全体をのろいから祝福へと変えてくださったのは主イエスです。神の怒りとのろいのもとにおかれていた私たちの人生をそこから贖い出して、祝福の人生へと変えたくださった。それはイエス・キリストです。このキリストを心の中で主とあがめなさい、とペトロはこう申します。そうすると、心が落ちつきます。そして自分たちに悪を行った者に対しても私たちは祝福を祈ることができるようになるのです。
お祈り致します。
2010年07月04日(日)
先週は、特に夫が未信者であるような場合、クリスチャンである妻の無言の行いによって夫が信仰へと導かれることがあることをお話ししました。今日は、妻たちへの勧告に引き続いてペトロが記しております、夫たちへの勧告の所を学びたいと思っています。
妻たちへの勧告については、3:1-6と、比較的多くの字数を費やしているのに対して、夫たちに対するペトロの言葉はたった1節だけです。一見バランスを欠くようですが、読んでみますと、どうしてどうして、たった1節の御言葉に実に豊かな内容が込められています。それで、このために1回の説教を割り当てる十分な理由があると判断し、今日は、この3:7により「夫たちよ」と題して御言葉を学びたい。
「同じように」…妻たちに対する御言葉を記したので、「同じように」夫たちにも書いておきますよ、というバランス感覚のような者も働いたかも知れません。それが一つ考えられますが、しかし、それだけではなく、3:1の「同じように」、さらには、2:18の「心から恐れ敬って」 、さらには2:13にまで遡ってこの「同じように」という接続詞の意味を考えることが必要ではないかと思います。「主のためにすべて人間の立てた制度に従いなさい。」という基本的なペトロの教え…人間の立てた制度であるけれども、その背後には、神の創造の定めがあります。創造の昔まで遡るならば、正に神の定めによる結婚の制度がある。これを重んじ、そこにおいて表されている「主の御旨」に従いなさい、ということペトロは強調したいわけです。結婚の制度を定められた主の御心とは何か。夫たちに対して与えられている主の御心を今日学ぶこととなります。
「妻を自分よりも弱い者だとわきまえて生活を共にし、いのちの恵みを共に受け継ぐ者と尊敬しなさい」。この文章の一つ一つの国重要な意味合いが込められています。特に重要なのは、「生活を共にし」と「尊敬しなさい」…この二つです。この二つが7節の文章構造の中で強調されています。
「生活を共にする」スノイケオー…創世記2:24において「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われておりますように、このスノイケオーという言葉は、「生活を共にする」という意味ですが、当然のことながら、肉体的性的な結合(交わり)も含めて全体的な結婚関係を維持することがここで勧められている。或いは「命じられてる」と行った方がよいかも知れません。これが結婚を定められた主の御心です。Cf.T7:1〜5。
近頃、セックスレス夫婦が多くなっている等ということが週刊誌などで指摘されていますが、それは、決して、結婚の制度を定められた主の御心ではありません。そうならないためには二人の間で結婚生活を充実させるための努力や工夫が必要です。結婚生活を豊かにするために、夫婦互いに努力すべきです。これは主の望んでおられることです。
夫には「妻を自分よりも弱い者だとわきまえて」生活を共にすることが求められています。
「妻を自分よりも弱い者だとわきまえて」…神に造られた者として、男性と女性を比べると女性の方が肉体的に繊細にできているということはよく指摘される所です。また、社会的におけるリーダーシップという観点からも、男性に比べて女性は不利な立場に置かれている場合が多いです。Cf.女性の機長第一号の藤明里さんについての記事が昨日の新聞に出ていました。身長が155pで、初めは、その身長の面で基準に満たず、日本の航空大学校に入れなかったので、米国の学校に行って操縦士免許を取られたそうです。こういった体格のハンディに加えて、女性への偏見と行ったことも経験して苦労が多かったとのことです。
しかし、ここでペトロが「妻を自分よりも弱い者だとわきまえて」と言っておりますのは、男性に比べて精神的に弱いとか、道徳的に劣っているとか、そういうことではありません〈一般的にギリシャ、ユダヤの世界では、そのように考えられていたようであるが…〉。Cf.6節「何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」。
次に「尊敬しなさい」…これも結婚生活における夫婦の関係で主が求められることです。長い結婚生活の中で、いつもいつもできることではないかも知れない。けれども、これは、主が夫たちに求めておられる主の御心であることを知ることは大切な事であるかと思います。しかもここでのペトロの教えをよく学ぶならば、夫は妻をただ単に尊敬すべきと言っているのではなく、当然の事として尊敬できるのだと言うことが分かってきます。
「命の恵みを共に受け継ぐ者として」との関連で「尊敬しなさい」
を読むことが鍵となります。「いのちの恵み」とは、夫も妻も共に与る救いのことです。夫婦はこの同じ救いに共に与る大いなる希望に生かされている。ここに、男女の本当の平等性がある。究極の平等性がある(Cf.ガラテヤ3:28等)。これは、異教社会における結婚関係にはないものです。私たちには、このようなキリストの「共同の相続人」(Cf.ローマ8:17)としての本当の平等性がありますから、夫は妻を心底尊敬して共にこの世で生きて行くことができるのはないでしょうか。
このこととの関連でCf.箴言19:14(旧1015)。…絶対的に賢い妻など世界中どこを捜してもいないでしょう。そうすると、ここでは、絶対的に賢い妻などということを念頭においているのではなく、相対的に考えてもよいのです。自分の妻には、賢いところもあれば、そうでないところもあるということでよろしいのです。
しかし、そういう中で、自分の妻を尊敬するとはどういうことなのか。「主からいただいた最も賢い妻、最もすばらしい妻」として、感謝して共に過ごすのです。この時、この箴言の御言葉が私どもにとって、本当にそうだと言うことになるのです。ですから、この箴言19:14の御言葉と今日のTペトロ3:7の御言葉を結び合わせて読めば両方の意味がよく理解で知ると思います。
私たちの結婚生活。最初にときめきがありました。それで結婚しました。そして、熱愛で結ばれた新婚の時代を経て、長い月日結婚生活を共に過ごして行く中で、熱愛は若干さめたかも知れないが、また、これまで気付かなかった妻の良さ、夫の良さがまた段々とわかってくるという面が確かにありますね。そういう風にして、生涯の終わりには「賢い妻は主からいただくもの」との御言葉の真実が実感できるのではないでしょう。
終わりに、ペトロは、「そうすれば、私たちの祈りが妨げられることはありません」と結んでいます。
共に生活する結婚生活の持続のためには努力と工夫が必要だ、と申しました。「夫は妻を尊敬しなさい」。この御言葉を心に刻み実践するためには祈りと努力がいるとも申しました。最後に申し上げたいことはこのような祝福された結婚生活のための祈りと努力は本当に必要だし、また、大いなる形で報われるということなのです。それは、どういうことかと申しますと、「私たちの祈りが妨げられない」ということなのです。私たちにとっては、このことは本当に重要なことです。
もし私たちの結婚生活が揺らいだり、互いの愛情が冷え込んでしまって、交わりがなくなってしまったり、或いはその他さまざまな理由で対立状態が長く続いたりすれば、私たちの神様との交わり、すなわち、祈りの生活も危機に瀕してしまう。生き生きとしたものでなくなってしまう。そういったことは十分に考えられることです。
しかし、逆に、健全な結婚生活が維持されるとき、そのことが、、私たちの祈りの生活、伝道の生活、教会生活、社会生活を大いに潤すようになるということも、十分に予想できる事であり、人生全般にどれほど大きな祝福をもたらすことか、量り知れないところがあります。
ですから、ヘブライ人への手紙の著者もその13:2において、「結婚はすべての人に尊ばれるべき」と言ったのです。
私たちは若い方々の結婚のために大いに祈り、また、協力すると共に、自らの結婚生活をより豊かにするために普段より祈り努力したいと思うのです。それは、「私たちの祈りが妨げられないためです」。
それでは、お祈りしましょう。
2010年06月27日(日)
今日は、Tペトロ3:1〜7により、「御言葉を信じない夫であっても」と題して御言葉を学びたい。
ペトロは2:12で、「異教徒の間で立派に生活しなさい…」と語ったが、この「立派な生活」を当時のキリスト者の社会生活の現実の中でより具体的に展開したのが、2:13〜3:7。
13〜17 教会と国家の関係の問題
18〜25 召使いと主人の関係の問題
3:1〜7 妻と夫の結婚関係の問題
今日は、この第三番目の「妻と夫の結婚関係の問題」に焦点を当てて、御言葉を学びたい。
1-6 妻たちに対するペトロの助言/勧告
7 夫たちに対するペトロの助言/勧告
両者は、言うまでもなく,互いに切っても切れない関係にありますが、わたしとしては、両方とも1回で学びきれないと思いましたので、7節の夫たちに対する勧告の部分は、次週学ぶことにしまして、今日は、1-6の 妻たちに対するペトロの勧告の部分だけ学びたいと思っています。
先ず1-2をもう一度読む。
「同じように」… 18 節に続いて,「同じように」主を畏れる畏れをもって。1,2節が今日の箇所の主文になっているが、3節以下は、この主文を言わば展開している部分です。例えば「無言の行いによって」(1)を展開しているのが3,4節、2節を展開しているのが5,6節です。
「信仰に導くようになるためです」ケルデオー…(商業上の取引などで)何かをかち得る。→(キリスト教で)信仰に導く、クリスチャンにする。
ここでは、未信者の夫を持つ妻が神を畏れるきよい生き方により、無言の行いによって夫を信仰へと導くと言うことがあるのだと,ペトロは言っている。クリスチャンである妻のきよい生き方を見て未信者の夫が信仰を持つようになる、そういうことがあるのだと言っているわけです。
「見る」アポプテウオー…目撃する、注目する、見守る。Cf.2:12。夫は,神を畏れて生きる妻の生き方をずっと見ているわけです。注目しているわけです。見守っているわけです。このことだけでも,夫婦というのは神の定められたすばらしい人間関係ですね。夫はずっと妻の生き方(神を畏れる無言の振る舞い)を言わばずっと長い間観察しているのです。
以前奉仕していた教会のY姉のことを思い起こしています。ご主人は未信者でしたが、晩年ガンを患って入院されたというので、お見舞いに行きました。その時、このご主人は読書好きで、(多分奥さんの本棚にあったのでしょう)三浦綾子さんの小説など読んでおられたことを知りました。このご主人はキリスト教に関心を持っておられたのですね。しかし、そんなことは奥さんには話しておられなかった。奥さんに対する男のプライドのようなものもあったのでしょう。「宗教のことで,妻に従うわけには行かない」という思いが支配していたのでしょう。ただ彼は、何十年ものあいだ、ずっと奥さまの生き方を見ておられた。クリスチャンとしての彼女の生き方を見ておられた。このようにして、この方の心の内にじわりじわりと主が働いておられたのです。
あるとき、わたしが病床で、イザヤ書55章を読み、お祈りをした後で、「Yさん、どうですか、洗礼をお受けになりませんか」と言いますと、うんとうなずかれたのですね。そこにおられた奥さまも大喜びで、わたしは2週間ばかり後に,長老を一人伴って病床授洗しました。
この筑波みことば伝道所の30年の歴史の中でも、小林静枝姉のご主人が病床受洗されたことがありましたね。静枝さんのクリスチャンとしての生き方をよく見ておられたのでしょう。
「無言の行いによって」(1)…これをさらに展開しておりますのが、3,4節です。「編んだ髪、金の飾り、派手な服装」…一つ一つ説明はしませんが、いずれも当時もてはやされた流行のファッションルックです。流行を追うことは必ずしも悪いことではないと思いますが、しかしペトロが申しますのに、こういった外面的な装いで人々の目を惹きつけようとするよりも、神の御前でもっと価値があるのは、「柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた,内面的な人柄」(4)だということなのです。外面的な飾りではなく、内面の飾り、内面的な人柄、これこそ、神の前に価値あるものでありますし、長年共に住む夫婦お互いにとって本当に魅力的なものであるに違いありません。特にクリスチャンの妻が未信者の夫に従って共に生きようとする場合に、無言の行いによって夫を信仰に導く上で、大きな力となるものであります。Yさんのご主人の場合でもも、奥さまが本当に謙遜にご主人に仕えられる,柔和でしとやかな気立てに,正直な所、やはり魅力を感じておられたのだと思います。
「このように装って」(5)自分の夫に従った人々の例として、ペトロは、5,6節で「神に望みをおいて」人生を生きた旧約の婦人たちのことを上げています。
先日、リジョイスで学びました,サムエル上25章に出てくるナバルの夫、アビガイルもその一人だと思いますが、ペトロが特に上げておりますのは、アブラハムの妻サラです。創世記18章によれば、3人の御使いが訪ねてきて、応対に出たアブラハムに「来年の今頃までに,あなたの妻サラに男の子が生まれる」と告げたとき、奥で聞いていたサラは密かに笑った。もう自分は年寄りの女だと思っていたからです。主が「なぜ笑ったのか」と問われると,サラは「恐ろしくなり打ち消していった。『わたしは笑いませんでした』」(18:15)。ある説教者は、この個所を「主を恐れ、打ち消して…」と解釈しています。サラの「恐れ」を単なる心理的なものとしてではなく、信仰的な「恐れ」へとここでサラは導かれたのだと解釈しておられるわけです。わたしもそのように理解したいと思います。ペトロは、主を畏れて、アブラハムを主人と呼び、アブラハムにし互い通した旧約の聖なる婦人の一人として、サラのことを描き出しているのです。
ペトロの結論6b節「あなたがたも,善を行い、また、何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」。ここで、「サラの娘」とは、先ず、「善を行う」妻です。「善を行う」とは、ここでは、特に「主人に従う」ことを意味しています。夫が未信者であったとしても、クリスチャンになったからと言って、優越感を抱き、夫の意向を無視したり、軽んじたりして,勝手気ままに生きるというのではない。夫は,主がわたしに与えて下さったかけがえのない人、「主人」として敬い,従い。仕えて行くべきである。そのことを通して彼女は「無言の行いによる」証しを立てることができるのです。
しかし、もう一方で「サラの娘」は「何事も恐れない」妻である。主にあって自立しているのである。彼女は夫が横暴にふるまうようなことがあっても,力で自分を従わせようとしても,たじろぐことはない。恐れることはない。彼女は主のみを恐れ、主にのみ従うのである。従順と自立は、彼女の信仰者としての生活姿勢において両立しているのである。
夫が明らかに主の律法に反することを考えたり、行ったりしようとするような場合、それをたしなめることも,神を恐れて夫に仕える妻の義務である。そうすることによって、主にある結婚関係が健全に保たれるし、家庭や教会が破滅から免れるのである。妻は何でも夫に従うのではなく、時には、「それはわたしの信仰が許さない。考え直して頂戴」と,夫に進言することも大切な事である。
妻たちよ、主に対する恐れを持って、自分の夫に従いなさい。善を行って、何事もを恐れないなら,あなたがたもサラの娘となるのです。私たちは、従うことと、何事も恐れないこと、主のみを畏れることを、私たちのクリスチャンとしての結婚生活において両立させたいものです。
お祈り致します。
2010年06月21日(月)
今日は、Tペトロ2:18〜25により、「横暴な主人に対しても」と題して御言葉を聞こう。
先週学んだように、ペトロは2:12で、(我々は、この世では、天国を目指して歩む旅人であり、仮住まいの身なのであるから)「異教徒の間で立派に生活しなさい…」と言った。この「立派な生活」を当時のキリスト者の社会生活の現実の中でより具体的に展開したのが、2:13〜3:7。
13〜17 教会と国家の関係の問題
18〜25 召使いと主人の関係の問題
3:1〜7 妻と夫の結婚関係の問題
今日は、第二番目にペトロが取りあげている「召使いと主人の関係の問題」に焦点を当てて、御言葉を学びたい。
「召し使い」…オイケテイスという特別な言葉。奴隷一般を示す言葉ではなく、家の奴隷、家庭奴隷、一家に仕える奴隷。特に家庭の中にあって、さまざまな働きに従事していた人々が、当時のローマには、沢山いたようである。人口の半数以上を占めていたという節もある。その中には、教養のある人もいた。子供の家庭教師、財産の運用に当たる管理人、書物を管理して学術の継承に貢献する者、医師もいた。
今日の聖書個所は、比較的長いのであるが、主文/従属分に分けて考えると、理解の助けとなる。主文は18,19節で、20節以下はすべてこの主文を補強する従属文となっている。
この主文の中の「無慈悲な主人にもそうしなさい(従いなさい)」を取りあげて、今日の説教題としたのであるが、説教題としては、新改訳の訳語を使って、「横暴な主人に対しても」とさせていただきました。その方がよくわかると思ったから。
「横暴な主人」…スコリオス…気むずかしい、曲がった性格の、よこしまな。これを新共同訳は「無慈悲な」、新改訳は「横暴な」と訳した。
「横暴な主人」にも、反抗したりしないで従う。「おそれ敬って」従う。これがペトロの勧めである。ただ、この「おそれ敬って」…、ギリシャ語本文では、「主人」の前に出てくるので、「主人」を畏れ敬うと言うよりも、「主を」畏れ敬ってと理解する方がよい。しかも、ペトロの手紙では、「畏れ敬う」と言う場合、主に対する畏れという意味で用いられている方が多い、ということもある。
ですから、主への恐れをもって(のゆえに)、召使いの主人がいかなる人物であるかにかかわらず、主人に従うようにしなさい、とペトロは言っているのである。Cf.パウロ書簡…エフェソ6:5-8(新359)、コロサイ3:22(新372)。
さらに、19節では「不当な苦しみ」受けることになっても、それでも主のゆえに従え、と言っている。
「不当な苦しみ」…主人が不機嫌の時、或いは、不可能な要求を突きつけてきたようなとき、召使いが受けるかも知れない侮辱とか打擲、等を指していると思われる。
皆さま方、現代社会に生きているクリスチャンとして19節をお読みになり、本当にそうだと、100%納得されますか。正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきり言うことがもっばら善いことととされている今日の社会に生きている私たちにとって、「不当な苦しみでも、主のゆえに甘受せよ、横暴な主人であっても、従え」と言うペトロの勧告は、そうすんなりと受け入れられるものではない、と、そんなふうな思いも一瞬頭をかすめるのである。
ペトロはそのような私たちの思いを察してか、自らの勧告を補強すべく、さらに二つのことを20節と21節以下で申し述べている。
20節…このように言われるとかなりよくわかってきます。同じように打ちたたかれたり、その痛みを耐え忍んだりする場合でも、自分が悪いことをしたためにそういった仕打ちを受けるという場合と、そうではなくって、神に従って善い行いをしたために却って憎しみや迫害を引き起こしてしまった場合に受ける仕打ちとは、神の前では、大違いだと言うのであります。一方は何の誉れにもならない。しかし、他方は神の御心に適うことだと言うのであります。
Cf.マタイ5:11(新6)。
もうひとつここでペトロが上げている論拠は主イエス・キリスト
の模範であります。Cf.21b〜23。主はその御生涯において不当な苦しみや仕打ちを受けても、反抗せずに、それを甘んじてお受けになった。私たちの主イエス・キリストご自身の生き方がそうだったではないかと言うのであります。この議論もクリスチャンとしては受け入れきいれざるを得ないものであります。キリストは私たちの主でありますから。
「模範を残された」…模範とは、お習字の手本のこと。それをなぞって私たちは、段々と上達して行くのである。キリストは私たちの手本とすべき模範である。私たちはキリストのしたがって行くのである。「足跡に続く」とは、従うこと。積雪の野を行く親の足跡に子が忠実に従って行くように、私たちキリスト者もひたすらにキリストに従って行くのである。
それでは、どういう点でキリストに倣うのか。→23節「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくおさばきになる方にお任せになりました」。復讐をしないと言うことでありましょう。復讐は主に任せると言うことです。この点で、キリストのお示し下さった生き方と、18,19節でペトロがキリスト信者である召使いのために勧告している生き方とは、重なりあう。接点があることがはっきりとわかる。
しかし、ここまでならば、私たちはまだ不安を隠せないのではないか。本当に、自分のようなものにキリストのまねができるのだろうか。そして、横暴な主人に従うことができるのだろうか、という不安であります。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくおさばきになる方にお任せする」とペトロは、キリストについて書いたが、このわたしにそんなことができるのだろうかという疑問であります。
そのような私たちでありますけれども、24節に至って私たちは、突如として、キリストの律法の中にある福音を知らされるのであります。キリストに従うとは、キリストが私たちのために苦しんで下さったこと、十字架にかかって私たちの罪を担ってくださったこと信じることであり、キリストの救いに与ることであることを知らされるのであります。それは、「私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」でした。
キリストのたどられた足跡に続いて、主に従って行くその過程において、私たちは、キリストのお受けになった「傷」を見るようになる。そして、その打ち傷が、その鞭の跡が、実は私たちの傷を、私たちの苦しみの心を癒すためにお受けになったものであったことを知るのであります。このように、私たちはキリストに従って行くその過程において、いつの間にかキリストの救いへと招かれ、その救いに与るようになるのです。そして、そのようなキリストの救いに与った喜びと感謝の中で、本当にますますキリストの足跡に従って行くことができるようになるのです。そして、横暴な主人にも従って行くことができるようになるのであります。これがペトロが今日の所で教えていることであります。また、感謝なことに、私たちクリスチャンがその信仰生活の中で、一人一人経験して来たことでもあります。
このように私たちがキリストの救いに与り、生き方を変えられて行きますのは、私たち自身の力によることではありません。ひたすらに主の聖霊の力によるところであります。主を喜び、讃えましょう。
お祈り致します。
2010年06月13日(日)
今日は、詩編2編とTペトロ2:13〜17により、「主のために従え」と題して御言葉をいただきたい。
先ず、背景的なことを二つばかり。
1.新約聖書で 「主」と言う場合には、多くの場合、イエス・キリストを指している。「主のために従え」という今日のタイトルもTペトロ2:13から取ったものであるが、「キリストのために従え」との意であることを念頭において下さい。
2.を学んだ前回の学び(11~12節)の中に、「立派な行い」と言う言葉が2度ばかり出て来ましたが、これを引き継いで、ペトロは、13節以下で、クリスチャンが社会生活を営んで行く場合の具体的な諸問題を取りあげ、勧告している。
2:13〜17 節 教会と国家の問題
2:18〜25節 召使いと横暴な主人の問題
3:1〜7 節 結婚関係に関する問題
今日は、教会と国家の関係の問題について、御言葉から教えられたい。初代教会のクリスマスたちは、殊の外この問題に深い関心を持っていたようだ。国家ぐるみの迫害などもあったからでしょう。 「人間の立てた制度」…クティシス(創造、造られたもの)。色々の制度は人間の作ったものであるが、法と権威は神に起源を持つものである。それで、ペトロは人間の立てた制度に、(それが皇帝であろうと、地方総督であろうと)主のために従え」と言うのである。 私たちは、クリスチャンにななれば、もはやクリスチャンでない皇帝や総督など、世の為政者たちには従わなくてもよいと考える誘惑に駆られる。とりわけ当時のローマ帝国などにおいては、皇帝が自らの権威を高めるために、自らを神とし、皇帝礼拝を強いたようなこともあった。
そのような状況下において、ペトロは、敢えて「主のために従え」と言うのである。13〜15をもう一度読む。
もっとも、ただ従え、ただ服従せよ、と言うのではない。「主のために従え」と言うのが使徒ペトロの教えである。「主のゆえに従いなさい」(新改訳、口語訳)。
ですから、皇帝礼拝を強いられるような場合には、クリスチャンは拒否しました。もし皇帝の命令に従って皇帝礼拝などするならば、それは、皇帝したがったと言っても、主に従ったとは言えないからである。クリスチャンはあくまでも主のために皇帝や総督の命令や帝国の法律に従ったのです。
彼らは、信仰に反しない限り、ローマの一般的法律に従うことにおいて驚くほど従順かつ良心的でした。彼らは、クリスチャンでないローマ市民などに比べてはるかに善良な市民であり国民でありました。
なぜなのか、その秘訣はどこにあったのか。それは、「主のために」と言う彼らの宗教的信仰的動機にあったと言うことができる。彼らは主イエス・キリストを彼らの服従すべき真の王として信じあがめ、すべての事において、そのみこころに服従しようとしていたからです。
キリストが、神の任命による全世界の王であるとの信仰については、Cf.詩編第2編。地上の王や支配者たちが覇を競い、主に逆らってたち構える中、主は「聖なる山シオンで、主自ら王を即位させた」と言われるのです。これこそ神の国の王、イエス・キリスト
即位の預言です。このようにして、主はとこしえの王として、今もまたとこしえに、全世界においてご支配なさっておられるのです。
そして、ペトロは申します、この主のために王や総督に従え、と。そうすることによって、国や社会の平和と秩序が保たれ、私たちが平穏で落ちついた生活を送ることができるからです(Tテモテ2:2)。 今、私たちの国で大きな災害となりつつある口蹄疫の問題をちょっと考えてみましょう。宮崎県全県下、さらには県境をも超えてその伝染が広がる気配を見せています。それで、国は、感染が確認された牛や豚のみならず、その周囲10キロ圏内の牛や豚も冊処分にすることが必要と言うことで、牛を育ててきた農家の方たちは、「牛にも1頭1頭名前をつているのだ、」と言って、涙を流して、どんなに辛い思いであるか訴えておられます。そのような映像を見る度に、私どもも本当に心痛む思いです。
しかし、政治家は、冷酷のようであっても、規定どおりの殺処分を命じているようです。全国的・全世界的な拡大を防ぐためには、必要との判断があるからです。このことにおいて、彼らは主の権威をにない、をれを代弁していると、私たちも言わざるを得ないのではないか。なぜならば、伝染を食い止めるため、あらゆる手段を尽くすことは主のみこころと考えられるからです。
政府は、保証などを万全にして、農家の方々の苦痛や悲しみをでき得る限り軽減しようとしているようですが、伝染を食い止めるためにあらゆる手段を講じることは、主のみこころであると同時にまた、政府の第一の務めなのです。
キリストが王であることについて、ウ小教理23は次のように言っています。
問 キリストは、私たちのあがない主として、どういう職務をは たされますか。
答 キリストは、私たちのあがない主として、預言者、祭司、王 の職務を、へりくだりと高挙とのどちらの状態においても果た されます。
キリストはその王職を、へりくだりと高挙とのどちらの状態においても果たされます。王なるキリストのイメージは、ただ力強い王としてのイメージだけではないのです。キリストについて「戦いに強い王」と言った強い王のイメージも決してないことはないのですが(詩編24:8等)、同時に、また、キリストはろばのこの背中に乗って、エルサレムに入城された、柔和な王でもあられる。王なるキリストは、十字架の悲しみと愛を持って、私たちの問題を解決して下さるお方であります。ですから、私たちは、この王のもとにに助けを求めて馳せ参ずることができるのである。Cf.マタイ11:29。
口蹄疫の伝染の速やかな収束のために、祈りましょう。また、他のどんな社会的政治的問題についても、否、教会的問題も含めて、十字架の主がその後支配の御手を私たちの国家社会、そして、教会に行き渡らせて下さるように祈りを続けましょう。
お祈りたします。
2010年06月06日(日)
ペンテコステ記念礼拝、中会伝道委員による問安と特別な礼拝が続きましたが、今日は、ペトロの手紙に戻りまして、Tペトロ2:11〜12によって、「仮住まいの身」と言うことについて主のメッセージを伺いたいと思います。
「仮住まいの身」と言うことについては、すでに、Tペトロの学びの冒頭1:1においてこの「仮住まい」と言う言葉が出て来ましたので、以前学んだことがあります。Cf.1:1。この手紙の宛先となっております小アジアの各地(今のトルコですが)に離散していたクリスチャンたちは「仮住まいをしている者たち」と呼ばれています。本籍、本国は別にあるのです。多くの人の場合、それは、ユダヤの地であったのではないでしょうか。彼らにとって、今住んでいるポントスやカパドキアと行った所は、仮住まいの地だったのですね。仮住まいの地というのは、この1:1では、そのような、ごく普通の意味で用いられています。
ところが、以前にも学びましたように、聖書の他の箇所においては、この「仮住まいの身」と言うことが、単なるこの世の居住地のこととしてではなく、私たちの人生全体の比喩としてこの「仮住まい」と言うような言葉を用いている場合が多いのです。今日学んでいる2:11もそうですね。「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。或いは、もっとよくわかりますのは、→1:17「地上に仮住まいする間…」。…クリスチャンにとって、この地上は仮住まいの場所であって、永住地は、「地上」以外の所、すなわち、「天」であるということが示唆されている」。私たちクリスチャンの本籍地、本国が天にあると言うことがはっきりと主張されておりますのは、フィリピ3:19,20、ヘブライ11:13-16)。大変すばらしい、また重要な個所でありますから、開いて読んでおきましょう。(新365、415)。
こういった背景に照らしてもう一度Tペトロ2:11に戻って見てみますと、「旅人」は目的地「天」に向かって旅をする「旅人」のイメージ であることがわかります。
このような、地上では、仮住まいの身であると言う、人生観は旧約聖書の詩編にも見られるものです。Cf.詩編119:19(旧約959)。この詩人の場合、際立っておりますことは、自分はこの地で宿り人に過ぎないから、ただひたすらに、主よ、あなたの御言葉によって生きたいと願っている、その願いの強さです。彼が仮住まいをしているその地の風習や教えに従うならば、それに呑み込まれてしまって、主のご支配の御手を見失ってしまう。彼らは真の神であるあなたの戒めを無視し、傲慢の極みを尽くしている。彼らの支配から、わたしを守ってください。そして、あなたの掟を教えて下さいと嘆願しています。19-24。
天に向かって旅を続けている旅人にとって、寄留の地の風習や掟に従うならば、天に向かうその道からいつの間にか外れて迷ってしまうかも知れない。違う方向へ行ってしまうかも知れない。ペトロも離散の民、仮住まいのものたちに同じ事を警告しています。「言わば、、旅人であり、仮住まいの身なのですから魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。
「肉の欲」…特に肉体に関わる欲望、例えば性欲等に限定して考える必要はないでしょう。使徒パウロが「肉」と言う場合には、?私たちが新しく生まれかわる前の「古い人」に関わることを「肉」と呼んで、キリストにあって新しくされた「霊の人」と対比させていました。ここでのペトロの言葉も同じように考えてよいのではないでしょうか。仮住まいの身であるならば、目的地の天にしっかりと目を向けていことが必要です。それなのに、あちらやこちらに欲望の目を向けるようなことになる。
ある意味では、ここでの肉欲とは、むさぼりと同じように考えてよいと考えられます。与えられたもので満足しないで、いつも不満が絶えないのです。これは、天に向かう旅人クリスチャンにとって大変な挑戦となると言うのであります。
私たちは、仮住まいの身を自覚するならば、先程の詩編の作者と同じように、この世の原理ではなく、御言葉に聞き従うことを旨としければなりません。それでいて始めて無事旅を終えて天のふるさとに行き着くことができるのです。
この世の人々の原理は、ここで集約的に「肉欲」と言われている原理です。どこまでも自分を大きくしよう、偉大にしようとする原理です。ここから憎しみやいじめが出て来ます。旅人は決してこの世の原理に染まってはなりません。
これに対して、仮住まいのものが努めて従うべき、御言葉の原理は、キリストにあって新しい生まれたものとして、主からいただいたものです。赦しの愛に生きる生活原理であり、祈る生活の確立であり、御言葉を読んで、主に従うことを日々の努めととする生活原理です。
旅の途中にあっても、このように、その地の原理に従わず、天の御国の主である神様の御言葉の原理に従って、信仰生活の旅を続けて行きたいと思います。
お祈りしましょう。
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