日本キリスト改革派筑波みことば教会

メッセージ

試練の中での喜び(Tペトロ1:6−9)

New! 2010年03月08日(月)

先週、私たちは、終わりの日の「希望」について学びました。イエス様の十字架と復活を信じる信仰によって私たちの人生はすっかり変えられました。闇から光、絶望から希望へと変えられました。それで、私たちは、希望の人生を生きることができるようになったのです。
 この終わりの日の希望について教理的に教えているウ大教理問答の90問の答を、私の試訳によって、週報の4頁に抜き書きしておきましたので、どうぞまた、目を通しておいて下さい。
 私たちのこの世における今の生活は、終わりの日の全き栄光を待ち望みながら、毎日を過ごしているのでありますが、そこには、パウロが使徒14:22で「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言っておりますように、多くの苦しみがあり、試練があり、また、同時に大きな喜びもあるのです。
 それで、今日は昨週に続き、Tペトロ1:6〜9より、「試練の中での喜び」と題して、御言葉をいただきたいと思います。
 皆さんは、「試練」という言葉をまい日常生活の中で口にすることがありますか。あまりないかも知れません。やはり使うとすれば、ちょっと深刻な内容の会話を交わすときかも知れませんね。例えば、「どこそこの教会の牧師先生は、検査の結果、肺がんだとわかったそうよ。牧師先生本人やご家族にとってだけではなく、教会にとっても、大きな試練ね」と。こういう場合に試練と言う言葉を用います。
 試練という言葉は、新約聖書に,新共同訳で20回出て来ますが、同じ言葉が,「誘惑」と訳される場合もあります。神様が私たちの信仰を試し、信仰を鍛えようとして、お与え下さる場合には,「試練」、サタンが私たちを信仰からそらせようとして、仕掛ける場合には、「誘惑」と申します。誰から出たものか、また動機が何であるかによって、違うわけですが、今日はこの違いについては、これ以上深入りすことはしません。今日の箇所で、また、第一書簡全体でペトロが語っておりますのは、すべて、クリスチャンがその生涯において出会う試練についてばかりだからです。
 Tペトロ1:6〜7を読む。
 神様を信じ、神様を愛し、従って行こうとする信者には試練はほとんど必ずと言ってもよいほどやって来ます。そして、先程も、誘惑との違いということで申しましたように、試練は神より来るものです。神によって与えられるものです。。私たちの信仰を試し、鍛えるために神がお与えになるものです。
 しかし、「今しばらくの間」とここでペトロが言っておりますように。神様は、私たちが耐えられないような、限りなく、過酷な試練を決してお与えにはなりません。Cf.Tコリント10:13。
 このように、神様が枠組みを定めて下さっているので、それを超えて私どもの信仰を試すようなことはなさらない。このような試練を経て、私たちの信仰は強く堅固なものにされて行く。そして、終わりの日にキリストの前で称賛と光栄と誉れを得ることとなるのです。それが神様が試練を一定の期間私どもにお与え下さる目的です。Cf.アブラハムに与えられた試練。「あなたが神を畏れる者であることが今わかった」(創世記22:12)。
 金は火で精錬されて、不純物が取り除かれ、価値あるものとなります。試練によって、ためされ、鍛えられたクリスチャンは火で精錬された金よりももっと優れた者として、神に受け入れられるのです。
 この試練についてヤコブ1:2はこう言っている。「色々な試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。
 世の中の考え方…試練とは苦しみ。できれば、苦しい事からは逃れたい。苦しい目には遭いたくない。(真の神を知らない)世の人々にとっては、宗教心と言えば、厄除けが中心となる。
 しかし、クリスチャンにとっては…試練―苦しい。これは確か。確かに苦しい。しかし、ヤコブは言う。「この上ない喜びと思いなさい。」と。なぜなら、試練は忍耐とクリスチャンとしての人格的完成へと私たちを導くから。「ヤコブ1:3,4」。
 「大いに喜びなさい(アガルリステ)」…それほど頻繁に用いられる言葉ではない。しかしペトロはこのT書簡で3度も用いている。1:6,8, 4:13.「非常に喜ぶ。喜びあふれる」。「この喜びは飛び上がって喜ぶ「歓喜」を言い表しています。身も心も高ぶるような喜びです(石丸新『生ける希望』29頁)。
 先週の説教で、聖書が喜びなさい、と言うとき、苦難の中でも心の奥底からわき上がってくるような喜びで、必ずしも、「万歳」と
叫ぶような、感情のほとばしるようなものばかりではないと言いました。しかし、ここでは、ペトロは飛び上がって喜ぶような、身も心も高ぶるような喜びについて語っているわけです。
 朝青龍のガッツポーズを相撲協会は咎めたが、オリンピックでもガッツポーズが認められている今日、同協会は今少し国際化の必要があるのではないかと思ったりします。ガッツポーズが勝った喜びを全身で現す、一つの表現形態であるとすれば、…。
 この喜びについて、ペトロは8節では、このように記しています。8節を読む。ペトロはこの手紙を書いている離散して各地に仮住まいしていたクリスチャンは生前のイエス様にはお会いしたことがなかったようです。みな使徒たちからイエス・キリストの福音を聞いて信じて救いにあずかったひとびとであったと思います。しかし、彼らは、キリストをみたことはなかったけれども、愛していたのです。
 また、終わりの日の全き救いを今日か明日かと待ち望んでいるけれども、今はまだ、キリストにまみえるまでには至っていない。それでも彼らは、「言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれている」と言っているのです。
 私たちはこのようなキリストに対する愛とそしてやがてキリストにまみえることのできるこの喜びをあふれるばかりの喜びとして胸に抱いておられますか。
 初代教会の信徒の方たちと私たちとの違いは何か。それは、主のために苦しむ試練と苦難の度合いが違うと言うことです。私たちでも、生ぬるい信仰を捨て去って、主を慕い求め、主のためには苦しむことをいとわないならば、その苦難の只中で、彼らと同じ「」言では言い尽くせない喜び」は私たちの現実となります。主のための苦難あるところに主にある喜びもまたますます大きくなるのです。
 クリスチャンとしての人生の中で、私たちが神様から受ける試練や苦難についてお話ししてきましたが、もし、神様からのものだと言うことが分かったならば、私たちは(創世記3章のアダムとイブのように、そこから逃げようとしないで、背後にある神様の御心を知って、感謝の思いを持って、これを喜んで受けるものとなりたい。
 試練に耐えたならば、それは忍耐を生み出し、人間としての成長につながって行くと聖書は証しているからです。
 Cf.哀歌3章19-33。若いときに軛を負ったことは良いことだ。若いときに苦労することはよいことだと言い換えることもできるでしょう。これをクリスチャン人生全体に適用して、私たちは、主からいただく試練と苦難を喜んで、受け、忍耐を学び、そうして、人間として、クリスチャンとして成熟してゆくものとなりたい。
 お祈り致します。。

生き生きとした希望(Tペトロ1:3-5)

2010年02月28日(日)

 使徒パウロは、Tコリント13:13において、「…信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と申しました。ここからキリスト教信仰の中心は、「信仰と希望と愛」であるとされるようになりました。
 今日は、このように、キリスト教信仰の中心とも言うべき信仰と希望と愛のうち、希望というテーマについて、一つじっくりと考え、取り組んでみることに致しましょう。
 希望というテーマ…普段は、信仰とか愛に比べると余り考えないかも知れなません。普段私たちが希望と言うことを口にするのはどんなときでしょうか。何かちょっとがっかりするようなことがあったとき、ふさぎ込んだりしていますと、親とか、周囲にいる親しい友人などが、慰めてくれることがあります。ほんとにがっかりだね。よくわかるよ。でも、ずっとふさぎ込んでいても仕方がないから、元気を出しなさい。また、必ずいいことがあるから。人間希望を失ってしまったら、おしまいだよ、とこんなぐあいです。
 確かに私たちは、希望があるから生きているのだと思います。何も希望がなくなってしまったならば、生きる気力さえ失ってしまうことにもなるでしょう。
 それでも、私たちはどういう希望を持って生きているのか、日常的に、余り考えることをしません。
 これまで、何度か講師の先生を招いて特別伝道集会をやったり、或いは、自分が説教者・講師となって伝道集会を行ったりしたことがありますが、「希望」というテーマを掲げても人は余り来なかったです。「愛」というテーマを掲げますと、多く集まるのですが…。
 「希望はどこに」とか「望みに生きる」とか、そういったテーマを徳のチラシの冒頭に掲げても、余り人々はすぐには関心を示さないようです。皆さんはどうですか。
 説教者としての反省もあるのですが、実は、昔のことを考えて見ますと、説教者である私自身が、本当に「希望に生きる」というような、みずみずしい希望に生きていなかったのかも知れない。自分の掲げたテーマについて、感動を覚えていないのだとすれば、話を聞く人は感動を覚えるはずがありませんよね。
 けれども、今日の私は違います。「生き生きとした希望」というテーマについて、私は確かに皆さま方にある種の感動をもってお伝えしたいと願っているのです。それは、みことばを信じる者としての感動です。みことばを信じる者ならば、誰もが持つことのできる、希望についての確信であり、また、そこから来る感動であります。
 そのみことばを読んでみましょう。Tペトロ1:3〜5を読む。
 先ず私たちが、希望について余り深く考えることをしなかったり、感動を覚えないとしたら、それは、私たちがどのような希望を持っているか知らないからではないでしょうか。ペトロはこの書簡全体において希望(望み)を持って生きるようにと勧めています。
ここでは「生き生きとした希望」について語っていますが、この希望について、(ペトロは表現力豊かな人なのですね)、色々の言葉を用いて、証ししています。
  「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」(4)…クレールノミアン…くじによって手に入れる、との基本的な意味。アブラハムはカナンの地を受け継ぐべき約束を受けていました。しかし、そのような約束の地カナンが必ずしもいつも安全であったかと言えば、そうではありませんでした。外敵の攻撃にさらされる。飢饉や災害に見舞われる、等々。しかし、ここで、ペトロが語っている、「天に蓄えられている財産」…これは、神の力によって守られている(5)。しかも、朽ちない、汚れない、しぼんでしまうことのない、そういう財産が私たち信者のために、天に蓄えられているのです。
「終わりの時に現されるように準備されている救い」(5)。この「救い」も「財産」と同じ事を表しています。
 「驚くべき光」(2:9)、
「いのちの恵み」(3:7)、
「祝福を受け継ぐ」(3:9)、
「しぼむことのない栄冠」(5:4)、
「永遠の栄光」(5:10)、
Cf.ウ大教理90(教理…聖書全体から集めた聖書的真理…だから、教理を学ぶ者は聖書の福音の教えの骨組みがわかるようになって、聖書を自分で読んでもある程度までよくわかるようになるのです.また、説教を聞いてもそれだけよくわかるようになる)。
「問 審判の日に、義人(キリスト信者)には何がなされますか。」
「答 審判の日に義人(キリスト信者)は、雲に包まれてキリストのもとに引き上げられ、その右に置かれ、そこで公に認められ無罪を宣言されて(アリガタイ)、捨てられた御使いや人間をキリストと共にさばき、天に受け入れられます。そこで彼らは完全かつ永遠にすべての罪と悲惨から解放されます(アリガタイ)。そして、考えも及ばない喜びに満たされ、無数の聖徒や聖なる天使たちとの交わりの中で、しかし、特に父なる神と主イエス・キリストと聖霊を直接見て喜ぶことにおいて、とこしえに至るまで、体と魂の両方において、完全に聖く幸せな者とされます。これこそ、見えない教会()会員が、復活と審判の日に享受する、栄光におけるキリストとの完全で満ち足りた交わりであります。」
 罪と悲惨の内に滅びようとしていた私たちが、なぜこのような「考えも及ばないような喜び」の中に入れられるようになるのか。なぜこのような「驚くべき光」の中に入れられるようになるのか。なぜ、無罪を宣言されて、「永遠の栄光」の中に入れられるようになるのか。なぜ、「体と魂の両方において、完全に聖く幸せな者」とされるのか。
 それは、私たちの主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの人生の方向性が全く変えられたからです。滅びに向かっていたものが救いを得たからです。ペトロはこのことをはっきりと証している。Cf.1:3b。私たちが希望を得るようになりましたのは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、死んで復活してくださったからです。キリストの十字架と復活が、私たちの人生を、とこしえに、全く変えてしまったのです。滅びに向かっていた人生、絶望的でしかなかった人生、それをとこしえの救いの人生、希望の人生へと変えたのは、他でもありません。イエス・キリストの十字架と復活という神の愛のみわざであります。それは、私たちの人生を絶望から希望へと変えたのです。これが希望についての私たちの信仰です。希望についての私たちの確信です。「終末信仰」と言います。万が一、皆さま方の中に終末信仰についてはっきりとした者をもっていないという方がおられましたならば、どうか、今日、この希望についての信仰をはっきりと持っていただきたい。ペトロ一1:3によってこの希望についての信仰をはっきりとさせていただきたいのです。終末信仰をはっきり持っていただきたいのです。(Cf.改革派教会創立60周年「終末の希望についての信仰の宣言」)。
 それは皆さんの人生を喜びで満ちたものにします。聖書で言う喜びは、必ずしも万歳を叫ぶような、感情のほとばしるような喜びだけではありません。打ち続く苦難の中でも、希望を抱いて喜ぶ、そういう心の奥底からの喜びです。
 ローマ12:12に「希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」という御言葉があります。はっきりとした希望を抱いておれば、その人の人生は、やはり、喜びを基調とするものに変えられて行くのです。嬉しい人生へと変えられて行くものです。私はそう考えています。
 ですから、皆さん、今日は、一つぜひ、すべての信者に約束されている救いの希望を、もう一度、ペトロの手紙から読み取って、教会員一同この希望に生きる者とされたいと思うのです。
 それではお祈り致します。
 
 

人生の目的(Tペトロ1:1〜2)

2010年02月21日(日)

 Tペトロ1:1〜2は、この手紙の著者と宛先が書かれている手紙の宛名書きと挨拶の部分ですが、短い個所ですから1回で済まそうと思っておりましたところ、今日もう1回この所から学ぶこととなりました。それは、ペトロがこのごく短い、手紙の宛名書きの部分で、私たちが「どこから来てどこに行くのか」と言う、私たちにとってとても大切な問いに触れているからです。先週はその前半部「どこから来たのか」について学びました。それで、今週と来週は、「どこへ行くのか」、その後半部を学びたいと思っています。
 先週は、私たちがどこから来たのか、私たちの存在の源をたどって行けば、母親の胎の中で、神様が私たち一人一人を造ってくださったという神の創造の御業にゆきつくのでありのでありますが、実はさらに遡って、神の永遠のご計画にまで行き着くのだと言うことを教えられたのであります。最も賢く、きよい神のご計画にしたがって、私たち一人一人は人格形成されているのだということを教えられました。このご計画の中で、私たちは神様の目的のために選ばれ、この世に生まれ出たというわけです。
 もう一度、2節を読みます。
 それで、今日は何のために選ばれ、この世にうまれでてきたのかという、その目的について、ペトロがここで語っていることを学びたい。「人生の目的」とは何かという言い換えてもよいかも知れません。
 「人生の目的とは何か」という事になりますと、私たちには、すぐにウエストミンスター小教理問答の最初の問が思い浮かんできます。「人の主な目的は、何ですか」「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。子の信仰問答の原点とも言うべき、有名な教えの文章です。暗記している改革派の真とのかたも多いと思います。私も暗記しています。
 そんなわけで、五木寛之という作家の『人生の目的』と言う本が出たときに、買って読んでみました。平成11年に出たというわけですから、もう大分前です。その時は余りよくわからなかったのですが、もう一度読み直してみると、少し、この本のおもしろさがわかってきた。
 本の帯には「人生に目的はあるのか」と書かれている。中身はざっとこんなぐあい。
 人生に目的はあるのか。私はないと思う。何十年も考え続けてきた末に、そう思うようになった。
 五木さんがこんなふうに考えるようになった背景には古代インドの人たちの、考え方に共鳴できなかったと言うこともあったようです。輪廻の思想ですね。生きている間によい行いを多くしさえすれば、次に生まれかわる時には今より良く生まれ、逆に悪行を重ねるものは来生で悲惨な目に合う、と言う考え方。善因恵果 悪因悪果。この場合、人生の目的ははっきりしている。人がなすべき事は、よりよく生まれること、或いは輪廻の鎖から永遠に解き放たれ、自由になること、そのために信仰を深め、善行を積む。ガンジス川で沐浴をし、行者に布施をする。これが人生の目的なのだろうか、と彼は問うわけです。
 五木さんが一番大切なことと思っているのは、とにかく生きること、目的がわからなくても、生きるのが恥ずかしいと思われるような場合でも、とにかく、生きてください。行き続けて下さい、と言うことなのですね。特に、自死者が多くなっている今の社会に向かって言いたかったのだと思います。生きてください。行き続けて下さい。目的は後からついてくる、と。
 それで、最後には、こう書いておられますね。「人生に目的はない私は書いた正直に言えば、《人生の目的》はわからないと言うことだったのかも知れない。しかし、このことだけはわかっている.人生の目的の第一歩は、生きること、である。何のために、と言うことは、後からついてくるだろう…。」
 生きること、とにかく生きること、生きて下さい。恥ずかしくってもとにかく生きて下さい。何のために、というのは後からついてきます。これは、私も大賛成です。皆様はいかがですか。同感されると思います。
 ただ、人生の目的がわからないと言われるのもよくわかるような気がします。なぜならば、人生の目的というのは私たちの信仰に関わる事でありますが、その信仰について、聖書はこう言っているからです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。ですから、ここでの使徒パウロの教えによりますならば、キリストの御言葉を聞くことなしには人生の目的はわからない、と言うことになります。いくら考えても、人生経験をいくら積んでも、それで、人生の目的がわかってくるわけではありません。信仰は聞くことによるのです。そして、それは、キリストの言葉を聞くことによって始まるのであります、皆さん。
 それでは、その御言葉はどういっているのでしょうか。私たちが生きる目的についてどういっているのでしょうか。もう一度、Tペトロ1:2を見てみましょう。読む。
 私たちが選ばれたのは、
1.イエス・キリストに従うため、
2.その血を注ぎかけていただくため。
です。
1.直訳すれば、「イエス・キリストへの従順」…聖書は、従順とか服従と言うことを強調している。これは確かである。Cf.申命記18:15(旧309)。しかし、聖書の強調している従順とか服従は律法主義でも、無律法主義でもない。それは、福音主義である。福音による従順である。ローマ書では、「信仰の従順」と呼んでいる。Cf.ローマ1:5(新273)16:26(新298)。信仰という従順(信じる事が従順の第一歩と言うことになる)か、信仰による従順(信仰が本当の、自発的な従順を生み出す)か二つの解釈がある。。
 私どもとして、信じることにおいて神様に服従して行く、そういうことを生涯の課題として、人生の目的として実践して行きたいものである。そうでなければ、私たちは信じようとしないだろう。信じても信じなくてもいいよ、それはあなたの自由と言われたら、私たちは色々の犠牲を覚悟して、信仰の道に入るだろうか。しかし、私たちは周囲の先輩たちを見て、これは、キリストを信じ従って行かねばと思うようになるのである。これがパウロのいう信仰の従順であり、ペトロの言うイエス・キリストへの従順である。
2.しかし、それでも、私たちは自らの内に善を行う力を、生まれながら状態では、持ちあわせていない。罪を悔い改めては、また犯すような者である。それで、ペトロは最後に、私たちはイエス・キリストの血を振りかけていただくために、という、人生の目的で最も大切なことを申し述べています。この必要は、私たちにとって、毎日あるのです。日ごとに、私たちは主イエス様の御血潮による罪の赦しをいただかなけれは、生きて行けないものです。
それで、ペトロはこのことを最後に持ってきたのですね。大切な事として最後に持ってきたのです。
 「その血を振りかけていただく」と言っても、毎日そのような儀式をおこなうというわけではありません。毎日、毎晩聖書を読んで、イエス・キリストによる罪の赦しをいただいていることを知り、感謝すると言うことです。そして寐る前の祈りの中で、朝起きたときの祈りの中で、罪の赦し乞い求め、このことを主に感謝すると言うことです。 
 罪を赦されて、私たちは始めて、神様と主イエス様に従って行くことがができる。そのようなモチベーション(意欲、力)が与えられる。このような恵みの日々を過ごす中で、私たちは、キリスト者として、人間として、成長して行くのです。
 どこから来てどこへ行くのか? 今日は、この地上における生涯の間、キリストに従い、その血の注ぎかけを受けるべきことを学びました。キリストに従うと言うことは、信仰によってキリストと結びつくことに他なりません。
 信仰によってキリストと結びついていますか。キリストは言われました。「私はいのちのパンである.私に来るものは決して植えることはなく、私を信じる者は決して渇くことはない。父が私に与えてくださる者派、皆私に来るであろう。私に来るものを決してこばみはしない」と。
 この招きに応じて、イエスさまを信じ受け入れるものとなりたい。信仰によって主イエスさまと結びつき、その御血潮による罪の赦しに生きる事こそが、私たちの人生の目的です。
 それでは、お祈りを致します。

ペトロの手紙の宛先(Tペトロ1:1-2)

2010年02月14日(日)

 1月は5回の主の日がありましたが、今年が伝道開始30周年の年であることを意識した礼拝説教を致しました。今年1年をこのことを覚えて神様に対する感謝と悔い改めの1年としたいと願ったからです。
 それで、すでに2月を迎えているのですが、2月3月は聖書のどの個所からメッセージを取り次ごうかと,色々考えたのですが、私の心を捕らえたのは、やはり1月に教会の年間標語聖句との関わりで3回ばかり学んだペトロの手紙でした。ペトロの手紙に私の魂は捕らえられておりました。そして、そこから逃れることはできませんでした。
 そういうわけで、これからしばらくの間は、ペトロの手紙から学びたいと思います。ただ、ペトロ一の2:1-10、4:7-11はすでに学びました。連続的に学んで行く場合に、そこのところはとばして次の個所を学ぶか、あるいは、同じ個所からもう一度学ぶか、そこの所はその時に判断することにして、主の導きに従いたいと思っています。
 さて、それで、今日はペトロ一の手紙の冒頭の2節から学びます。短いから1:1,2をもう一度読みましょう。
 この手紙の著者は,多くの聖書学者によっても1:1に記されているように,十二使徒の一人、また、その代表格でありました、使徒ペトロであると目されています。伝承の伝えるところによれば、ペトロはローマ皇帝ネロによる迫害下に殉教したとされているので、の書簡は迫害の始まった紀元64年以前には書かれているはずである。多くの人は63年頃ローマで書かれたものと考えています。
 そして、その宛先は、1節に書かれているとおりですね。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」宛てて書かれています。これがこの手紙の宛先です。5つの地名が出て来ますが,今日のトルコですね。当時は、小アジアと呼ばれておりました。Cf.巻末の地図3。小アジアの東部、中央部、西部にまたがる五つの地域の名がこの宛名書きに出て来ます。
 ペンテコステの日に3000人がペトロにより,他の使徒たちにより洗礼を受けて初代の教会の最初のメンバーとなったのですが、その中には、カパドキアやポントス、アジアに住む者たちがいたと使徒言行録2章は記しています。このような人たちが故郷(ふるさと)に帰って教会共同体ができていたのかも知れません。そのような小アジア地方の各地に離散して住んでいた人々にペトロは励ましの手紙を書いたと思われるます。
 それで、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と記されております、「仮住まい」と言う言葉に注目していただきたいのです。
 「仮住まい」…そこにずっと一生涯住み着いているというのではなく、ただしばらくの間だけそこに住んでいる、そういう場合に、仮住まいと申します。つくばには、外国の方が仕事や研究のために多く住んでおられますが、大部分の方はそういった仕事や研究が終わるとつくばの町を去って行かれます。彼らはつくばでは「仮住まい」いですね。ペトロがこの手紙を書いている小アジアのクリスチャンたちもここでは「各地に離散して仮住まいをしている」と書かれていますから、他に帰るべき本籍地(例えば、母なる都エルサレム等)のある人々が多かったのかも知れません。
 ただ聖書には、他の個所でも、「仮住まい」とか「寄留者」という言葉がよく出てくるのですが、人生の比喩として「仮住まい」とか「寄留者」という言葉が用いられている場合が多いのです。Cf.1:17「…この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」。ここでは、神様がおられる天が本当のふるさとである.そのことが前提としてあって、この地上にある間は、仮住まいである、とそういうふうにペトロは言っているわけであります。
 Cf.also2:11「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから,魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。ここでは、クリスチャン人生が天国へと向かう旅路に譬えられています。ここでも天国が本当のふるさとですから、地上の生涯は仮住まいです。
 皆さんは,自分の一生というものについて,時に立ち止まって考えることがあるでしょうか。自分の生涯の「来し方行く末について思い巡らすことがおありでしょうか」。「自分はどこから来てどこに行くのだろうかと時に静かに考えるような時があるでしょうか」。
 正月くらいかな,と言われる方がありますか。もしおられたら、大したものだと思います。なぜなら、昔の日本の正月は、宗教的な面が多くあったと思いますが、今はかなり世俗化されているからです。自分がどこからきてどこへ行くのかという問は、優れて宗教的な問なのですね。それで、私たちは,正月と言うよりも、むしろ、毎週の礼拝で、神様の前に出て、自分がどこから来てどこに行くのかということについて、尋ね求めたいものです。
 それで、私たちは,自分たちがどこから来てどこに行くのか、2節において学びたい。
 先ず、どこから出て来たのか。…「父である神が予め立てられたご計画に基づいて」とある。私たち一人一人の人間も含めて,万物の起源は父なる神さまにあります。父なる神さまは万物の起源です。そして、さらに、父なる神は何のご計画もなしに勝手気ままに思いつくままに事をなさる方ではありません。三位一体の神の交わりの中で熟慮され、決意された永遠のご計画に基づいて,一切のことをなさるのである。これを「聖定」と申します。Cf.ウ小教理7「神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は,ご自身の栄光のために,すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです」。
 皆さんは自分という存在を遡って行けば、母親の胎にたどり着くくらいにしか考えておられないかも知れませんが、実はもっと遡って、父なる神さまのご計画にまでたどり着くものなのです。Cf.詩編139:13-18。「あなたの御計らいは,私にとって如何に貴いことか。神よ、如何にそれは数多いことか」。私たちのためのきめ細かなご計画が如何に貴いものであるかをこの詩人は歌っています。さらに、今日聖書朗読した詩編16:5。「主は私に与えられた分、私の杯、主は私の運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けました」。この詩人に与えられたこの「麗しい地」「輝かしい嗣業]はどこで決められたかといえば、神様の永遠のご聖定においてであります。
 自分の出まれ育った家について不満を抱いたことはありませんか。たとえそれが最高に立派な家ではなかったとしても,私たちは決して失望落胆することはありません。それは、この地上において神様が私たちに与え、いわば「遣わされた」愛の訓練の場であって、私たちのすべての運命がそこで決まるのでは決してないのです。むしろ私たちの一切が決められるのは、神の最も聖い永遠のご計画のうちにおいてでであります。神様の私たちに対するご計画のすべては、詩人が告白しておりますように、本当に麗しく、輝かしいものです。Cf.日本キリスト改革派50周年「予定についての信仰の宣言」一の(三)「神の選びこそがすべての救いの祝福の源泉です」。私たち一人一人は、言わば“世界一幸せなものとなるように”と、神様は確かに私たちのためにお定めになっている。それが復活のキリストを信じる私たちキリスト者の確信です。私たちは、もう一度詩人と共に歌いましょう。「主は私に与えられた分、私の杯、主は私の運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けました。」(詩編16:5,6)。
 今日は,私たちが「どこから来てどこに行くのか」と言う問について、その前半部「どこから来たのか」について学びました。次週は、「どこへ行くのか」、その後半部を学びたいと思っています。
 それではお祈り致します。

みわざを広く伝えるために(Tペトロ2:1-10)

2010年02月07日(日)

 1月24日の会員総会の日の礼拝説教でもTペトロ2:1-10より学びました。「教会に生きる」と題して、学びました。その時は、2:1-10の主として前半部(最初の5節)から学んだのですが、今日は、同じ個所の後半部、9節の御言葉を中心に学びたい。
 前半部分の学びの折にも「祭司」という言葉がすでに出て来ておりました。「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(5b)。
 その時にも申しましたが、「祭司」とは、礼拝や奉仕のわざにおいて神と教会に仕える人のことです。また、祭司は、「万人」祭司と言われるように、特に16世紀宗教改革以降においては、必ずしも、牧師とか司祭と言った、特定の職にある人々だけが祭司の務めをするのではなく、すべての信者が教会において祭司となるべく召されているのだということも、私たちは学びました。教会員皆が祭司である、と。
 今日の説教題は、「みわざを広く伝えるために」と付けましたが、すべての信徒に与えられている祭司の務めが礼拝や奉仕の業においてだけではなく、伝道においても祭司の務めがあるということを、特に2:9の御言葉から学びたいと思うのです。
 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9)。
先程の聖書朗読で出エジプト19:1〜6を読みましたが、このTペトロ2:9の背景となっている旧約の箇所です。驚くほどよく似ておりますね。特に、6節「あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」。恐らく、ペトロは何度も何度もこの出エジプト記を読んだに違いありません。漁師の家に育ち、自らも、イエス・キリストの弟子となるまでは、漁師を生業としていたので、特に学問に長けた人ではなかったでしょう。その点では、ガマリエル門下で、律法の教育を受けた使徒パウロとは違っていたでしょう。けれども、出エジプト記は、モーセが預言者として召され、「エジプトの地、奴隷の家」から神の民イスラエルを導き出す救いの書でありますから、何度も読んでそのメッセージを自分のものとしていたに違いありません。とりわけ、19章・20章はシナイ山でモーセに十戒が与えられる、出エジプト記でも「中心的」と言ってもよいような個所でありますから、何度も読んでいたに違いありません。
 それで、もう一度Tペトロ2:9に帰り、ペトロが神の民イスラエルとの連続性において新約のキリスト教会を呼んでいる一つ一つの呼称について吟味してみましょう。
 「選ばれた民」「聖なる国民」…これについては、、申命記7:6-8(旧292)を参照してください。
 イスラエルに力があったから、神様に選ばれたのではありませんでした。数が多かったから選ばれたのでもありませんでした。実は、イスラエルはどの民よりも貧弱であった。けれども、「ただあなたたちに対する主の愛のゆえにエジプトの地、奴隷の家から救い出されたのだ」と、モーセはイスラエルの会衆を前にしてしみじみと語っています。
 私たちも自分たちの教会について思います。私たちはイエス・キリストの福音を語り伝える教会として30年間、福音の光を掲げてきました。しかし、自分たちに力があったから、このことができたのではない。数が多かったから神様が伝道をおゆるし下さったのでもない。私たちは、誰よりも貧弱であったのかも知れない。しかし、私たちに対する主の愛のゆえに、主は私たちに30年間改革派教会としてこの地に福音を伝道するすることをおゆるしくださったのだ、と。私は本当にそう思います。
 このこととの関連で、私は、最近の神戸改革派神学校『校報』(68号)所載の国安光神学生の夏期伝道報告に示唆深い証を読むことができました。白石契約伝道所は宮城県白石市にある無牧の伝道所(私も2年前の6月に一度御言葉の奉仕をさせていただきました)ですが、この伝道所の会員である一人の姉妹がこう証しておられます。
「私自身がここに生きる者として,何をなすべきか?何ができるのか?を問いたい。主がその生命を捨てて買い取って下さった教会に仕える私の熱心は衰えていないだろうか?自分の弱さを本当に認めて,神様に誠実に打ち明けて助けを求めているだろうか?たとえ日本で一番小さな伝道所であろうと、定住牧師がいなかろうと、老人ばかりであろうと、やるべきことはちゃんとやる、だめなことはだめだと言う、教会を愛することにかけては人に負けない」。
 国安兄は、このような東北の小さな無牧の伝道所の信徒の方の信仰に大変教えられるところがあったようです。次のように感想を書いておられます。「神の言に生きる東北の信徒の方々は、たとえ小さくても、お金がなくても、若者がいなくても、神に信頼し、神を喜ぶために心をつくして教会に仕えておられました」。
 「王の系統を引く祭司」…これについては、出エジプト19:4,5を参照。特に、19:5の最後に出てくる「世界はすべて私のものである」という御言葉に注意。主は、この世界とその中のすべてのものを造り保ち支配しておられる、全世界の王なのです。私たちがキリストの福音を証し、伝道するとき、これほどに心強いことはないのではないでしょうか。私たちは,全世界の王に属する祭司として、全世界に福音を証すべく召されている者なのです。力強く全地を支配しておられる王に仕える祭司なのです。
 神学校に入ったばかりのころ、宣教師の先生に連れられて町に行き、路傍伝道の訓練を受けたことがあります。阪神元町の駅頭に立って、道行く人に福音を説教するのです。拡声器を手に持って、「私たちは神戸改革派神学校で学んでいる学生でありますが、皆様は天地万物をお造りになった唯一の真の神様のことをご存知ですか」と、ありったけの声を挙げて福音を説教するのです。もう43年も前のことですから、こういうこともできたのですね。それでも初めは、中々勇気のいることでした。ただ、「天地の造り主である生けるまことの神」と言った途端に、何かしら気持ちが座って大胆になることができたことを覚えています。「世界はすべてわたしのものである」。このように権威をもって仰せになった方が,私たちを福音伝道にお召しになるのですから、私たちは大いに心強いことでございます。
 伝道のために勇気を戴きたいと願うならば、「天地万物を造られた唯一の真の神様をご存知ですか」と切り出すのが一番よいようです。八百万の神々の文化の中で、まことの宗教を知らない日本人は、「天地の造り主なる唯一の真の神」への信仰を何よりも必要としています。
 最後に、「神のものとなった民」。直訳すれば、「神の所有の民」です。神は私たちをご自分の宝の民とされた、とありました。使徒20:28によれば、神様は教会を本当にご自分の所有とするために、「御子の血をもって買い取ってくださいました」。ご自身の御ひとり子の命を犠牲にしてまで、私たちを尊び、愛し、私たちをご自身の宝の民としてくださったのです。
 それには、何か目的があったのでしょうか。あったのです!Cf.9b節。「あなたがたを」が、特に強調されています。私たちを暗闇の中から驚くべき光の中に招き入れてくださった!これこそが神の力あるみわざです。
 私たちはかって闇の中に沈んでしまっておりました。神もなく、希望もないものでした(エフェソ2:12)。聖書で言う「暗闇」とは、霊的暗闇のことですね。神がおられない。そして、希望もない。私たちもかつては、そのような状態の中で、もだえ苦しみ神を求めたのであります。
 今、世の中には、このように、自分では気づいていなくても、暗闇の中で神をさがし希望の光を求めている人が何と多いことでしょうか。昨日のニュースでは、昨年度も、自殺した方の数は3万人を超えたということです。教会はこのような人たちに天地の造り主である神様のことを伝えなければなりません。
 「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力あるわざを,あなたがたが広く伝えるためなのです」(9b)。この「力あるわざ」は、正に神の御業であると同時に、また、主イエス・キリストのみわざでもあります。イエス・キリストこそ、その十字架と復活によって、私たちの人生を闇から光へと、絶望から希望へと移し替えて下さった方だからです。かつては、神もなく希望もなかった私たち、自分の人生を絶望的と思っていた私たち、そのような私たちを180度、希望の人生へと変えてくださったのは、十字架の主であり、復活の主でありました。この方に今日、今一度心も体も明け渡しましょう。そして、「神共にいます」希望の人生をもう一度歩み始めましょう。そして、この1年、私たちの人生を変えてくださった主の大いなるみわざを一人でも、二人でもいいです。家族や友人にひろく伝えてまいりましょう。
 それでは、お祈り致します。

互いに仕え合う教会(Tペトロ4:7-11)

2010年01月31日(日)

 2010年の新年も今日で、最初の月が終わります。この一月、5回の主の日がありましたが、いずれも、今年2010年が私たちの教会にとって伝道開始30周年の年であると言うことを念頭において説教をしてきました。今日は、第五聖日、1月最後の聖日ですが、もう一度、30周年ということを念頭においたみことばの学びを共に致したいと願っています。題して、「互いに仕え合う教会」。「奉仕」に焦点を当てて、これまでの歩みを振り返り、主に感謝すると共に、また、将来に向けて姿勢を整えたいと願っているのです。
 伝道開始30周年の今年、この教会で牧師として奉仕させていただいて思いますことの一つは、実に多くの主にある奉仕がこの教会において献げられてきたということです。それは、1階の書棚に置いてあります10冊ばかりの教会アルバムを見てもわかると思います。そして、さまざまの活動の会計帳簿や、書記記録等も1階の会議室には保管されておりまして、それを見ますと、色々のなつかしいお名前が出て来て興味深いのですが、これだけ様々な活動・奉仕がなされてきたのだということを思い巡らすことができるわけです。そして、教会組織をしました1993年からの10年間は教会奉仕を整えるための執事会もできまして、本格的な奉仕の業が10年間なされたわけです。
 このように、「奉仕」という面で、この30年間、多くの恵みの業を許されてきた私たちの教会でありますけれども、この節目の年に当たって、今一度、奉仕とは何かということについて、みことばの原理を学び、姿勢を新たにすることも必要ではないかと思うのです。
 与えられた聖書の個所は、Tペトロ4:7〜11です。
 先ず、7〜8節は、奉仕についての中心的な教えへの序説の役割を果たしています。それは、「心を込めて愛し合う」と言うことです。この部分は、すべて動詞は二人称複数形となっていますから教会全体への教えとして読むべきです。「愛し合いなさい」「もてなし合いなさい」「互いに仕え(合い)なさい」…「合う」とは一つとなると言うこと。教会全体が祈りにおいて、愛において、奉仕において、一つとなることが強調されています。
 10節…「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。
 奉仕というのは、新約聖書のギリシャ語では、ディアコニア。元々の意味は、食卓の給仕の務めを表す言葉です。ここから、もう少し一般的に、奉仕の意味でも用いられるようになりました。
 それで、奉仕という場合、一般には、他の人の必要を満たすため仕える、働く、手伝う、自分をささげる等の意味で用いられることが多くなっていす。最近では、奉仕という替わりに「ボランティア活動」等という場合がありますが、教会的には、「奉仕」と言う方が定着しているかと思います。そして、聖書では、このTペトロ4:10のように、神からの賜物を用いて互いに仕え合う、と言うように、神から戴いた賜物との関連で奉仕を考えることが多い。
 もう一度、Tペトロ4:10を読む。
 「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっているのですから」…先ず、私たちは、各自それぞれ例外なく、誰にでも何らかの賜物が与えられていることを先ず感謝をもって認めましょう。そして、それを、ただ自分のためだけに用いるというのではなく、互いに仕え合うために、教会のため、キリストのため、神様のために生かして用いる、というのがここで言っております奉仕です。
 ここでは、みことばの説き明かしと執事的奉仕が奉仕の代表的な令としてあげられていますが(11)、より広く考えれば、「車が好きだ」、「車の運転が得意だ」というのも、一つの賜物でありましょう。「パソコンができる」というのも、賜物でしょう。
 賜物は私たちが自分で獲得するものではなく、何と言っても神様からいただくものです。英語では、ギフトと言う。ですから、自分はこういう賜物を神様から戴いているのだなと気づくのは信仰によるのです。その場合に、自分に与えられている賜物(才能)、或いは他の兄弟姉妹に与えられている賜物に気づくという場合、ペトロが「神のさまざまな恵みのよい管理者として…」と言っていることに注意してください。「さまざまな」…「色々な」と訳した方が原意に忠実。本来、「色とりどりの、様々な色をした」という意味の言葉です。本当に、神様は私たちに色々な賜物を、各自にお与え下さっていまする。一様ではありません。そのことを私たちは自分自身について、また、兄弟姉妹について、このような賜物の多様性のことをよく知って、互いに他の方に与えられている賜物を感謝し、尊重し合いたいものです。そして、常に「へりくだって相手を自分よりも優れた者と考え」るようにしたい(フィリピ2:4)ものです。
 そうして、一番大切な所ですが、賜物を生かして用いるようにとペトロは命じています。そしてそのことによって互いに仕える者となれ、と言うのであります。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
 どうすれば、賜物を生かして用い、互いに仕える者となることができるのでしょうか。ここの所を直訳すれば、「各自その賜物を教会のために給仕せよ」となる。賜物を差し出して他の人の必要を満たす、教会の必要を満たすようにせよ、ということ、です。
 神様から各自戴いている多種多様な賜物を教会のために生かして用いる、これほど幸いなことはありません。これほどに生き甲斐を覚えることは他にありません。普段余り教会の事に関心がないように見える若い兄弟姉妹でも、色々の奉仕をお願いすると、驚くほどの熱心を示してくれるということをよく知らされます。
 今後とも、私たちは各自が神様から戴いている賜物をよく知り、それを生かして用い、互いに仕える者となりたい。教会形成という見地から言えば、各自の奉仕がばらばらに単発的になされると言うのではなく、主にある奉仕の業が、それぞれ結び合わされて教会形成へと積み上げられて行くようにと願うものです。
 そのとき、私たちの奉仕の業は、本当に「賜物を生かして用い互いに仕えなさい」というここでのペトロの教えによく適うものとなります。また、昨週の御言葉との関連で言えば、各自「生きた石」となって「霊的な家に造り上げられ」てゆくのです(Tペトロ2:5)。
 一人の兄弟(姉妹)が教会のためになして下さった貴い奉仕の業が後の者によって確実に継承され、さらに、進展を見るためには、何らかの形で、その奉仕について、報告し、必要ならば、引き継ぎも行っておくことも忘れないようにしたい。それは、「神のさまざまな恵みの善い管理者として」(10)主と教会に仕えようとするとき、一つの大切な心得であると言えるでしょう。そうして、教会の奉仕の担い手が換わっても教会形成は継続されて行くのです。
 最後に、使徒ペトロは神への頌栄をもってこの項を締めくくっています。新共同訳での最後の文は「神にありますように」となっているが、前の文の「イエス・キリスト」を受けて、「イエス・キリストにありますように」とも訳すことが十分に可能です。私は、その方がこの項全体の文意に適っていると思います。賜物を生かして用い互いに仕えることを、根本的な所で教えてくださったのは、イエス・キリストの愛であります。主はご自身の十字架の死と復活によって、私たちに愛を教えてくださいました。互いに愛し合うことを教えてくださいました。私たちの主であり、師であるこのイエス・キリストが私を愛し、あなたがたを愛し、さまざまの賜物を豊かにお与え下さいましたから、私たちは互いに愛をもって仕え合うことができるようにされたのです。このキリストとその父なる神に栄光と力とが世々限りなくありますように。
 きょうは、1月最後の主日礼拝ですが、このイエス・キリストを改めて信じ受け入れ、新しい思いをもって明日から始まる新しい月の歩みを始めたいと思います。
 お祈り致します。

教会に生きる(Tペトロ2:1-10)

2010年01月24日(日)

 今日は、年度初めの定期会員総会の日であるから、特に、今年度年間標語として掲げたいと願っております「教会に生きる」ということについて御言葉を学びたい。
 今の時代、教会とか、教会生活を強調する組織的宗教(組織や団体を持つ宗教)は余り人気がなくて、むしろ、個人宗教、即ち、教会や寺などに行かなくても、自分で本を読み、DVDを見たりして、祈りや修行なども自分にあった仕方で宗教的な情感を養うと言った個人的宗教、が多くの人々の求めるところとなっています。それで、本屋さんなんかに行きますと、宗教書は沢山並べられていますし、結構売れている、また、そのような書物の著者である、有名な宗教家が講演などしますと、大勢の人が聞きに行くわけであります。自分の属する教会で、いつも同じ牧師から説教を聞くよりもその方が学ぶところが多いと言うわけでありましょう。
 さらには、そのような個人的宗教の方が、煩わしい人間関係で悩んだりすることもないし、お布施や献金の義務もずっと軽くて済む、と言ったこともあるのかも知れません。
 それで、教会や教会生活を強調するキリスト教宗教などは、世間的には、余り人気がなくなってきています。一昔前(例えば、戦後10年、20年くらいのキリスト教ブームと言われたような時代)に比べますならば、人気が落ちてきているようであります。
 けれども、私たちは、にもかかわらず、今年、主の2010年、筑波みことば教会にとっては伝道開始30周年の年でありますが、敢えて、「教会に生きる」というこの年間標語を掲げたいと思うのです。なぜか。
 私たち改革派教会の大先輩である、ジュネーブの改革者カルヴァンは教会の事を「母なる教会」と呼びました。もっとも、このように教会の事を「母なる教会」と申しましたのは、カルヴァンが最初ではなく、彼以前から多くの教会人たちがそのように言っていたのだと思いますが、カルヴァンはその『キリスト教綱要』の第4編「教会について」の中でこのことを強調しています。カルヴァンは、真の教会の事をすべての敬虔な者にとって母のような所であると申しまして、なぜならば、すべてのキリスト者は「この母の胎に身ごもられ、この母から生まれ、その懐で育てられ、その保護と支配の下に守られて、終に死すべき身体を脱ぎ捨てて天使のようになる(マタイ22:30)ことに至るのでなければ、命に入る道はないこととを学ぶのである」と、このように書いています(4:1:4)。
  教会は、そこでクリスチャン御言葉を聞いて霊の命を戴いて、生まれ、育まれ、成長をし、そして、終に救いを自分のものとする所、そういう意味で、信者にとっては、教会は「母なる教会」である、といっているのです。「母なる教会」…これはすばらしい比喩ですね。
 確かに、教会の交わりのただ中で生きることは、いつもいつも楽しいことばかりではありません。小野静雄先生(現大会教育委員長)も「教会で生きることは並大抵のことではない。そのことを否定できない。教会に生きることは労苦と忍耐の多い仕事です」(『リフォルマンダ』2004年6月号)。本当にそうです。もう教会に来たくなくなるような思いに駆られることも時にはあります。しかし、実際に煩わしいからと言って母なる教会から外へ出て行ってしまいますと、もはやそこには、私たちがあれほど慕い求めたキリストの命はなく、信仰と愛と謙遜の訓練も受けることができない。クリスチャンとしての霊的成長も止まってしまう。そしてやがて命は枯渇してしまうのです。
 母なる教会で「霊の乳]を戴いて、生まれ成長すると言う真理を、最もよく言い表しているのがTペトロ2:1,2です。
 1~2節を読む。
 悪意…(ある注解書によれば)私たちの罪深い性質(原罪)から出てくるるもの。隣人に対して何か苦痛や害悪を与えたいという欲心のこと。ですから他人事ではないですね。自分自身も注意しないと、知らず知らずのうちに他人に対して、悪意を持ってしまうものものなのですね。だから、御言葉を聞くときにはそのような悪意や、偽り、偽善、ねたみや悪口と言われておりますものを皆きっぱりと捨て去って、(きっぱり、が重要)「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とペトロは私たちに勧めるのです。
 赤ちゃんは母親から貰うお乳だけが生きるための糧ですから、それはもう大変な勢いで、乳を飲み続けます。「慕い求める」というのは、もともと「熱望する」「切望する」という意味の言葉ですが、そのような、大変な勢いで、乳を飲み続ける赤ちゃんの飲みっぷりを思い起こさせる表現となっています。世の人々に特徴的な悪意や偽善などをきっぱり捨て去って、私たちは本当に飲みっぷりよく霊の乳を慕い求めるということ。これが教会生活の中心におくべき第一の重要性を持つことです。
 3,4節…ここでは、イエス・キリストのことを「生きた石」と言っています。九州熊本で伝道していたときのこと「教会にはご本尊がありますか」と尋ねられたことがあります。その時は、「いや教会にはご本尊はありません。何か木や石で作られた見える形のご本尊はありません。けれども、今目で見ることはできないが、私たちの心の中におられ、聖書全巻が語り伝えているイエス・キリストという方が、敢えて言えば、ご本尊と言えるかも知れません」とお答えした記憶があります。このキリストが教会の中心にいます方です。私どもが混じりけのない霊の乳である御言葉を慕い求めたとき、主が恵み深い方であることを知るようになります。
2:4で,
この方は、「生きた石」と呼ばれています。普通、「石」と言う場合、石は生きておりませんから、「生きた石」というのは、矛盾のように聞こえるかも知れない。しかし、「石」は、6~8節を見ればわかるように、旧約聖書では、メシアの比喩として用いられる場合があるのです。例えば、7節の「隅の親石」もメシアのこと。
 なぜイエス・キリストが「生きた石」と呼ばれるのかと言えば、この石に触れる者に命を与えるからです。そういうメシアだから「生きた石」と呼ばれるのである。
 ですから、教会で御言葉を聞き、この「生きた石」と信仰によって結びつけられるとき、私たちもまた、一人一人が「生きた石」となって、用いられるようになるのです。もちろん私たちの場合は、イエス様のように初めから「生きた石」と言うわけではないのですが、イエス様と信仰によって結びつくと、私たちも「生きた石」として用いられるようになるのです。Cf.5節a。
 このように、教会で、イエス様の御言葉を聞いて、信仰によってイエス様と結びつき、私たちも「生きた石」として用いられるようになるのですが、そこで、何をするのかと言えば、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」とペトロは言っています(5b)。
 祭司…旧約聖書以来、礼拝に仕える人、神と人との間に入って礼拝を守ることができるようにとりなし仕える人のこと。宗教改革以来、プロテスタントの教会には、万人祭司という言い方がしばしばなされます。言わば、、信徒すべてが、祭司となる、仕える人となる、奉仕者となる、ということ。これは、またすばらしいことではないですか。
 私たちは教会に来ます。初めしばらくの間は、教会生活に慣れないと言うこともあって、お客様意識が抜けきれません。しかし、御言葉を聞いている内に、段々とキリストのため、教会のため、兄弟姉妹のために何か役立つことをしたいと思うようになる。そういう思いが内側からわき上がってくる。これが奉仕へと私たちを道いて行くのです。聖霊のお働きです。生きた石らしく、生き生きとした信者になってくるのです。
 30周年の記念行事で聖書朗読やその他の様々なご奉仕に協力いただく場合でも、このように、今日の御言葉が言うように、「聖なる祭司となって」参加しますと、30周年の行事がもはや他人事ではなくなります。わたしにとって大事なみことば教会が生まれてから30周年、「私の、私たちの30周年]だから、私も生きた一つの石、聖なる祭司として、参加したいという願いへと導かれるのであります。
 今年、2010年が私たち一人一人にとってそのような「教会に生きる」年となるように願っています。 
 お祈りします。

主イエス・キリストの恵み(Uコリント8:1-12、9章)

2010年01月17日(日)

「主イエス・キリストの恵み」という今日の説教題。何か漠然としているように思われるかも知れません。実は、元々の意図は、会員総会直前の主の日だから、「自発的献金こそ神に喜ばれる献金である」というような、献金の精神について、一度お話ししておこうと思ったのです。献金の精神について説教するような場合には、よくこのUコリント8,9章がテキスト(説教のための聖書個所)として選ばれるのです。
 しかし、ここの個所を何度か読んで行く内に、はっと気づきました。ここに教えられている御言葉の原理は、献金についてもちろん有効なのですが、しかし、奉仕についても当てはまるのではないかと。
 興味深いことに、この8,9章には、「献金」という言葉はほとんど出てこない。「募金」(8:20)くらいのもの。あとは、「慈善の業」とか「奉仕」「施し」というような言葉ですね。そして、献金や慈善の業のことを「神の恵み]と呼んでいる所が多いですね。
 そういうわけで、このUコリント8,9章は、貧しい人たちが多かったエルサレムの教会を援助するために、パウロが、マケドニアの教会の例を引きながら、コリントの教会に献金を勧めている「献金の勧め」の御言葉でありますけれども、私たちにとって、献金の姿勢について学ぶところの多い個所であると同時に、また教会における奉仕についても、同じように大切な原理を学ぶことができるのです。
 ただ奉仕という場合、日常的な教会の礼拝や諸行事のための奉仕(例えば、毎週の会堂掃除や愛餐会のための食事作り、週報や月報、年報などの印刷等々)があると同時に、春秋の特伝集会やクリスマスのキャンドルライトサービスといった特別な行事のための奉仕もあるわけです。今年は、特に5月に伝道開始30周年の記念行事を致しますので、そのための奉仕と言うことも私たちにとっては、重要な機会となるわけです。「聖書を読む」ということも含めてこの記念行事への参加も、主への奉仕、教会への奉仕の重要な機会として位置づけることができるのではないでしょうか。
 今年いただいた年賀状の中に、同じ東関東中会の船橋高根教会の長老さんからのものがあり、「5月の聖書リレー朗読には参加させていただきます」と書いてありました。先日の中会・教師の働きでその長老さんと一緒だったのですが、帰りがけに、「宮ア先生、5月の聖書リレー朗読には寄せていただきます。ひょっとしたら、もう3,4名一緒に連れて行くかも知れません」とまた言われましたので、「ああ、ぜひいらしてください」とお答えしておきました。
 このように同じ中会内の他の教会の方から参加の申込を戴くようになりますと、一度に、この聖書リレー朗読という記念行事の性格がわかってきます。これは、単なる修養会ではない、内輪の記念集会でもない、これは、やはり一つのイベントなのだということに気がついてくるのです。内外から、筑波みことば教会の伝道30周年を祝って駆けつけて下さる方たちも一緒になって聖書をリレー朗読する一つのイベントなのだということに気づくわけです。
 学校で言えば、差し詰め、文化祭とか学芸会・音楽会といったところでしょうか。或いは、教会で言えば、ミニバザーならぬ、もう少し規模の大きいバザーのようなイベントとなるのかも知れません。ただ内容は、あくまでも「新約聖書全巻リレー朗読」です。そういう意味では、祈りによって支えられなければならない霊的なイベントなのです。
 しかし、お客様・助っ人に来ていただく以上は、やはり、恥ずかしくないように準備しておかなくてはなりません。パウロも、自分が推し進めようとしている募金運動について、同じようなことを気にしておりますね。Cf.9:3,4。パウロは、コリントの教会の募金についての熱心をマケドニア教会の人々に伝えておりました。「もうすでに、コリント教会では、エルサレム教会のための募金を始めているそうだ」と。それで、パウロとマケドニアの信徒の方たちがコリントに行ったときに、まだ用意ができていないという状況であるならば、「恥をかくことになる」から。予め数名の兄弟たちを派遣して、ちゃんと準備を整えておくように促したいということなのです。
 私たちも5月の連休に助っ人のお客様を迎えるまでに準備をよく整えておくことが大切だと私は考えています。昨年の実行委員会を中心とした準備は、どちらかというと、旧新約聖書66巻、1189章をどうすれば、また、何人で、96時間かかって読み通せるかと言う、算術的なものであったかも知れません。しかし、これからは、多くの方を祈りと笑顔の挨拶をもって迎え、共に30周年の感謝をもって聖書を読むという、より霊的なものとなるでしょう。
 それで、先日も、女性の会の役員の方たちに、ぜひ女性の会として、ご協力いただきたい旨、お願いをしました。ぜひ、今日午後行われる総会において、これは女性の会としては、当然と言えば当然のことですけれども、今年の年間計画の一部として、30周年記念行事への協力を決めていただきたいと思っています。私としては、現会長のもとで一致してご協力いただければと願っています。
 それで、こういった記念行事のための奉仕ということなのですが、私どもがきょうの聖書の個所から学ぶことができることは、ただ一つだけです。それは、献金でも奉仕でも同じなのですが、「神に喜ばれる奉仕(献金)は自発的なものである」ということです。9:6-7
もう一度読んでみましょう。今日の聖書の個所の中でも特に重要な個所であるというべきでありましょう。
「つまり、こういう事です。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」
 たしか、私たちの用いている献金袋にこの聖句が印刷されていたのではないでしょうか。もし献金が強制されてなされたとしたら、それはもう献金とは言えませんね。それは、税金のようになってしまいます。神様に喜ばれる献金とは言えません。
 全く同じ事が奉仕についても言えます。いやいやながら、強制されて行う奉仕というものがあり得るのかも知れません。戦時下において、国の命令でよく行われたと聞いております「勤労奉仕」等は、そういった奉仕の部類に入るのかも知れません。私自身は経験がないので、わかりませんが。けれども、そのような強制されて行う奉仕は、ここでパウロが言っている神に祝福される奉仕とは全く別物です。ここでは、パウロは「喜んで与える人を神は愛して下さるからです」と言っています。
このような「喜んで献げる献金」「喜んで与え、喜んで行う奉仕」
…これは、世の中の計算高い人間には難しいことかも知れません。何か損をしたような何か失ったような気持ちになるのでしょう。よしかし、キリスト教会では、「喜んで献げる献金」「喜んで与え、喜んで行う奉仕」…これが普通のこととなっている。なぜでしょうか。何がそうさせるのか。やはり信仰ですね。特に「主イエス・キリストの恵み」を知った者にとって、この「喜んで献げる献金」「喜んで与え、喜んで行う奉仕」が、不思議と、たやすいこととなります。それほどに難しい事ではなくなってきます。「主イエス・キリストの恵み」を知っているからです。
 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(Uコリント8:9)。これも、もう一つの大事な聖句です。
 主は神としての身分境遇において豊かさの極みにあられたのに、そこに留まることに固執されないで、身分の低い処女の胎に宿り、宿屋がなくて、家畜小屋にお生まれになった。その後、苦難に満ちた御生涯を送り、終に、十字架にかけられ、一身を犠牲にされるまで、へりくだられたのである。
 この「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで神に対する従順を尽くされた」キリストのへりくだりこそが、ここで、「キリストの恵み」と言われているものです。
 そして、みことば教会の皆さん、この 「主イエス・キリストの恵み」こそ、私たちの差し出します、すべての惜しみない奉仕や献金の源である。クリスチャンはみなこの「主イエス・キリストの恵み」を知っています。この「主イエス・キリストの恵み」を戴いて豊かにされた者であることを知っています。ですから、喜んで与える者となりたいと願うようになるのです。
 このようなクリスチャンとしての信仰と愛を5月には、それぞれの力に応じて、言い表し実践していただきたいと思います。そうすれば、本当に、「助っ人」として来てくださるお客様方と、よい交わりの中で、伝道開始30周年を共に感謝し、お祝いすることができます。
 お祈りします。 

旧約聖書とはどのような書物か(ルカ24:36-49)

2010年01月10日(日)

 主の2010年となりましてから、もう10日を過ごして参りました。2010年と言えば、何度も言うようでありますけれども、私どもの教会が、このつくばで、改革派信仰による伝道を始めましてから30周年に当たります。
 それで、5/9の主の日には(現在はCRCのラジオ牧師で、この教会の牧師も92年〜98年、6年間務められた)山下正雄先生を迎えて、記念礼拝を守り、記念講演を伺うこととなっている。また、その直前の、5月4-5日の連休には、聖書リレー朗読会を、記念行事として、皆で力を合わせ、また、近隣教会或いは中会関係諸教会の協力も仰ぎながら、開催しようと願っているところです。
 それで、今日は、1月の第二回目の聖日でありますので、もう一度30周年記念行事に関わる説教をしたいと思います。題して、「旧約聖書とはどういう書物か」。
 最初にこの説教の構想を練り、題を決めたのは、昨年のクリスマス前であって、その時は、まだ、聖書全巻リレー朗読をおこなうという委員会の方針でした。それで、旧約のお話しをしなければと考えていた次第です。その後、新約聖書の全巻朗読と言うことに替わったのですが、それでも、新約を本当に読み神様の御言葉、キリストの御言葉として読み、理解するためには、どうしても旧約聖書の学びと理解が必要です。そのことに全然変わりはありません。これは、古代教会最大の教父で神学者のヒッポの監督アウグスチヌスが旧約と新約の関係について、「旧約の光に照らして、新約を読み、新約の光に照らして旧約を読みなさい」という有名な言葉を残している。そういったことからも、私たちの新約を正しく読むために、旧約の学びが欠かせないことがおわかりいただけると思います。
 それで、今日は、新約の光に照らして読むならば、旧約とはどのような書物か、言うことについてお話ししたい。
 お話しします聖書の個所は、ルカ24:44〜49です。十字架にかけられた後、復活されて、弟子たちに現れなさったときに、聖書についてお教えになった大変重要な個所であります。私たちは、昨年8月までずっと連続的にルカによる福音書を学びましたので、今日の箇所もすでに一度学んだことがあります。しかし、こういう重要な個所は何度も学んでおく必要がありますので、どうか、今日も主の御言葉に耳を傾けてほしい。
 44節。ユダヤ人の聖書、我々の言う「旧約聖書」は三つの部分から成っている。
 @律法…モーセの律法
 A預言者
 B諸々の書物…その筆頭が詩編
 「モーセの律法と預言者の書と詩編」…これで、旧約の全巻を当時は著していたわけです。ですから、ここで、イエス様は、「私(イエス・キリスト)について、旧約聖書全巻に書かれていることは、必ずすべて実現する」と言っておられる。旧約聖書全巻は、すべてイエス様について書いているのだと言うことが分かりますね。これがキリスト教的な(キリスト中心的な)旧約聖書の読み方です。
 Cf.ルカ24:25〜27「ご自分について」。復活の主イエス様の教えによれば、旧約聖書はイエス様ご自身について書かれてある書物だと言うことを、先ずは、ご理解いただきたい。
 さらに、45節以下で、イエス様は次のように言っておられる。45〜47節を読む。ここの御言葉を読む場合に、大切なことは、『』の中に書かれてある御言葉は、そのままの形で旧約聖書のどこかに書いてあるのかということです。「メシアは…復活する」にしても、「罪の赦しを…宣べ伝えられる」にしても、旧約聖書の中に捜しても、中々ここという所が見つからないのです。それで、ここの所は、旧約聖書のどこかの個所から直接的に引用しておられるのではないというふうに考えざるを得ない。
 それでは、『』の中に入っているのは何なのでしょうか。旧約聖書全体の内容のサマリーなのでしょうか。正にそうなのですね。『』の中に入っている文章は、旧約聖書全体のメッセージのサマリー(要約)なのです。
 先程、私たちは旧約聖書の全体がイエス様ご自身について書かれているのだという、イエス様ご自身の教えについて学びました。そして、「イエス様ご自身」のことというのは何か、ということについて、さらにイエス様は、この46,47節において、それは、十字架の苦しみをうけること、その後(三日後に)復活すること、そして、イエスの名を信じた者は皆救われるという福音が全世界に宣べ伝えられる、ということだと言っておられるのです。
 ですから、旧約聖書は、モーセの律法も預言者の書も詩編も、皆このようにイエス・キリストの事について、その十字架の御苦しみと復活について、またその福音が全世界に宣べ伝えられることについて預言的に記している、そして、そのような預言が今、あなたたちが、見てよく知っているように、私の受難と復活の中で、すべて実現したのですよ、と、このように、イエス様はここで言っておられるのです。
このように、復活のイエス様ご自身の教えに従って、旧約聖書に苦難と栄光の主の福音を読み取ることができるようになりますと、私どもにとって、旧約聖書は俄然面白くなってきます。面白いだけではなく、もう本当に私どもクリスチャンにとってなくてはならない人生の導きの書となります。とりわけ、様々な困難に打ち勝つ力をいただくことができる、そういう書物となってきます。もう離せない、と申しましょうか。
 Cf.創世50:20「あなたがたは私に悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」ヨセフ物語の、メッセージですね。これも内容的に言って、新約のメッセージ、イエス・キリストによる苦難と栄光を預言していると言えないでしょうか。ヨセフはお兄さんたちの悪巧みによって、ずいぶん苦しみました。エジプトに売られて行き、そこで、ファラオの宮廷の役人ポティファルの家に引き取られたのはよかったが、主人の妻に意地悪をされ、無実の罪に問われ、獄中生活を長く強いられることとなる。多くの苦難を経るのでありますが、しかし、神様のご計画は、それら苦難の一切を用いて、ヨセフを国の最高司令長官の地位に引き上げると共に、飢饉に苦しんでいたイスラエル民族をお救いになるのです。これは、正に苦難と栄光の主、十字架と復活の主イエス・キリストの御生涯と、その御業によって全世界が福音の希望に生きるようななった新約のメッセージを予告するものです。私たちはヨセフ物語の中に、キリストの福音を読み取ると同時に、私たちのクリスチャン人生の一つのモデル、或いは、型を見て、苦難の中における慰めと希望を持つように導かれるのです。
 Cf.詩編119:107「私は甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させてください」。先ず私たち自身の人生経験と重ね合わせてみます。本当に、事がうまく運ばず、世間からの評価も得ることができず、心が落ち込んだりすることがあります。しかし、神に思いを向け、御言葉に聞くときに、神はそのような中にあっても私たちに諸々の恵みをもって希望を与え、勇気を与え、命をもって養ってくださることを知るのです。
 そして、私たちは、この詩編の聖句が正に主イエス・キリストの十字架の御苦しみと、その後の復活を予告するものであることに気づきます。そうすると、イエス・キリストのお受けになった辱めに比べて今自分が受けている辱めがどんなにとるにたらないものであるか、また、そのような辱めをお受けになったイエス様がその後、復活の命をお受けになったことに限りない慰めを覚えるようになるのです。
 「苦難を経て栄光に入れられる」これはイエス・キリストの御生涯とその教えの特徴です。ルカ24:26,27、24:46,47。
 これは、また、クリスチャン人生の特徴でもある。苦しみを経なければならない。しかし、それを経て後、必ず栄光に入れられる。Cf.諸々の病と様々な苦しみに打ち勝って、自分を信頼してくださった神を讃えた三浦綾子さんのことを思うべし。
 また、このような「苦難を経て栄光へ」と言うこのキリストの御生涯と教えの特徴は、旧約聖書の全巻においても見られるものです。
 私たちは、このようなイエス・キリストの十字架の苦難と復活を旧約のすべての書において読み取りたいものです。
 そのためには、日頃から聖書に親しみ、祈りつつさらに聖書を読むことです。30周年記念行事がそういった私たちの聖書を読む熱心をかき立てるイベントとなるように祈りたいと思います。
 それでは、お祈り致します。
 

教会ここにあり(マタイ18:15-20)

2010年01月03日(日)

 新年おめでとうございます。
 2010年となりました。私どもにとって、今年は伝道開始30周年の年です。1989.5.11〜2010.5.11 満30年となる。5/9の主の日に山下正雄先生を迎えて、記念礼拝を守り、記念講演を伺うこととなっている。マタイ、記念行事として、直前の5月連休中に「聖書リレー朗読会」を行うこととなっています。
 先ほど、子供たちに話しましたが、30年間にこの筑波みことば教会において1560回の礼拝をささげました。礼拝をささげたということは、そこで聖書が朗読され、それに基づいて説教がなされ、またそれと共、たびたび聖餐式や洗礼式と言った聖礼典が守られてきたと言うことです。
 説教や礼典のすべては、イエス・キリストが世々に亘って教会で執り行うようにとお命じになったことです。そのイエス様がマタイ18:20でこう言っておられます。「二人三人が私の名によって集まるところ、そこに私もいるのである」。これはよく祈祷会の祝福との関連において引用される聖句ですが、毎週の主日礼拝にも十分に適用することができます。
 毎週、私たちは礼拝に集まって来るのですが、それは、そこに私たちの主イエス・キリストがおられることを知っているからです。それで、遠くから近くから集まって来るのです。礼拝はキリストの名によってささげられるものであるから、そこにおられる。キリストが親しくご臨在下さるのである。このキリストのご臨在こそ、教会が教会たる最も大いなる現実です。
 そもそも教会とは一体何でしょうか。
 日常会話においては、教会とは教会堂を指すのが普通でしょう。「教会はどこですか」「そこを曲がって右側にありますよ」。こういったやりとりはごくごく日常的なものです。しかし 聖書には教会堂のことを教会と教えている例は一つもないのではないか。
 聖書において教えられている「教会」の定義には色々ありますが、「キリストのからだ」とか「聖徒の交わり」等々です。もう一つ、教理や組織神学の教科書などを見ると、「教会の標識(マークス)」ということが教えられている。カルヴァンの『キリスト教綱要』の日本語版(渡辺信夫訳)では、教会の「旗印」と訳されている。
 教会の標識・旗印とは、最低限どのようなことが行われていれば、そこに真の教会があると言えるのか、と問題である。教会らしい建物が建っていたとして、その中味はレストランや結婚式場というような場合も最近は多くあります。これは真の教会とは言えないわけです。
 教会の標識(マークス)というのは、普通は、純粋な御言葉の説教と聖礼典(洗礼と聖餐式)の執行です。この二つがある限り、そこには確かに真の教会が存在していると言えるのです。正に「教会ここにあり」ということです。
 この二つに、戒規の執行を加えることもあります。きょうの聖書の個所に戒規をどのように行うべきかについてイエス様が教えておられるところがありました(18:15〜18)。教会員が「罪を犯した」場合にそれを放置しておくのではなく、個人的に或いは教会として、戒め、悔い改めを促す、これを「戒規」と申します。そして、教会に罪が蔓延して道徳的に汚れたり腐敗したりしないようにするため、また何よりも本人が罪の故に滅びてしまうことがないように、悔い改めを促すわけです。このことがきちっとなされていることも真の教会の標識の一つだとする立場も改革派教会の中にはあります。
 私どもはきょうは、普通一般的に教会の標識と考えられている二つのこと、即ち純粋な御言葉の説教と聖礼典の忠実な執行に一応限って、この30年の恵みを振り返ってみたいと思う。
 前述のカルヴァン「キリスト教綱要」は、キリスト教会においては、古典中の古典とも言うべき書物です。その4編1章9節で、彼は、教会の標識について次のように言っている。「教会の姿がわれわれに出現し、また目に見えるようになるのはここからだ。なぜなら、『二人三人が私の名によって集まるところ、その中に私もいるからである』との(マタイ18:20)の約束は欺くことの有り得ないものであって、神の言葉が真摯に説教されまた聞かれる所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所、そこに神の教会があることは何ら疑うべきでないからである」。
 30年間にこの筑波みことば教会において1560回、礼拝が守られてきたと申しました。1560回、改革派教会において正規に認定された牧師たち教師たちによってみことばの説教がなされ、そしてその間、毎月のように礼典を守ってきた、その度ごとにキリストはそこに臨在し、聞く者にご自身の御旨をお教え下さった。またキリストの霊である聖霊のご臨在もありました。
 そのような中で、この教会において、子供たちも合わせてでありますけれども、51名の者が洗礼を受け、更に多くの者たちはここで御言葉を聞いて他の所に移り、そこの教会で洗礼を受けたり、長老・執事として活躍しておられるのです。これは本当にすばらしいことです。この30周年の年、このような主のすばらしい救いの御業を覚えて神に感謝を献げたいと思います。記念行事を行うということはまず感謝をささげる事です。感謝することを忘れてはなりません。
 そして、次にもう一つ大切なことは、悔い改めて新しい出発をするということです。毎週の礼拝でキリストのご臨在に親しく与りながら、私たちはそのような恵みを受けた者にふさわしい信仰のよい実を結んできたかどうか、反省してみることが必要です。
 この30年の間に、私たちの教会は、「教会」から「伝道所」への種別変更という大きな悲しみ・試練を経験しました。私たちはこの30周年の年にこのことについてもはっきりと悔い改めて新しい出発をしなければならないと思っています。
 一つの悔い改めの道として、きょうの御言葉との関連で申しますならば、キリストが臨在される礼拝・諸集会をもっと大事にする・重んじるということを挙げることができるでしょう。キリストのご臨在をもっと喜び、みことばを求め、もっと飢え渇いた思いをもって諸集会に集うことです。
 主日礼拝については、昨年は礼拝出席者数が20名を切るまでになりました。12月末の統計を取ってみると、一年間の平均礼拝出席者数は19.5名でした。やっと四捨五入して20名です。最近の筑波みことば教会は右下がりだと言われても仕方がないのではないでしょうか。悔い改めがなくて良いはずがありません。
 週間の水曜祈祷会(「聖書の学びと祈りの集い」)については、30年の歴史の中で盛んな時もあったと聞いています。けれども私がこちらにきて2年後くらいからでしょうか。誰もこない(牧師夫妻だけ)という時期が長く続きました。最近は、客員の兄弟姉妹たちの熱心な参加があって、大いに励まされています。
 水曜日の祈祷会には誰も来ないということはこの教会の体質  のようになってしまったかのようです。この体質を変えることは容易ではないかも知れませんが、今年悔い改めの一歩を踏み出したい願っています。
 ある先輩の牧師は「祈祷会がその教会の実力だ」と言われたそうです。礼拝に何十人何百人出席しても、祈祷会に出席する人が少なければその教会の実力はやはり弱いというわけです。例えば、牧師に何か事故が起こった、教会に重大なことが起こった、その時に何をおいてもかけつけてくる人は、大体祈祷会に来る人数だという風にも言われることがあります。そのくらいに、自分の教会に対する愛情と責任意識が弱くなっている教会が、今の日本には多いのです。私たちも悔い改めなければならないのかも知れません。もちろん、皆さま方一人一人ついてどうのどうのと言っているわけではありません。それぞれ職場や家庭の事情がありますし、また、皆さま最善を尽くして教会の集会に出てこられることもよく知っています。私はむしろ、長年に亘って培われてきた教会の体質について懸念しているのです。悔い改めの必要を覚えているのです。
 悔い改めとは、ただ自分の弱さを自覚して、自分はダメだ、自分には何もできないと反省することではありません。悔い改めは、聖書では、「命に至る悔い改め」と言われています。ウエストミンスター小教理問答87では、これも「救いの恵みです」と述べた後で、これによって「罪人は自分の罪をほんとうに自覚し、キリストによる神のあわれみを理解して、自分の罪を嘆き悲しみつつ、罪から神へと立ち帰り、新しい服従をはっきりと目差し努力するようになるのです」と教えています。悔い改めとは、全く神の恵みによることで、そういう意味では、受け身なのですが、同時にそれは、新しい服従の第一歩を踏み出すという、積極的な良い方向に人生を変える決断だということも覚えてほしい。
今年は30周年の年です。このような感謝と悔い改めの年となるようにと願っています。
 皆さん、改めて新年おめでとうございます。
 それでは、祈ります。